11章から、いよいよダビデが登場してきます。
サウル王の死後、イスラエルという国は士師記のような時代に戻る可能性がありました。しかし人々は、ダビデを王とします。これはサムエルをとおして与えられた主のみことばに従った結果です。大切な決断をするとき、みことばに立ち返るということを、私たちも貴重としたいと思います。
15節からは30人の勇士のうち、3人の活躍が記されています。このあたりの記述は、三国志に出てくる趙雲子龍が曹操の大軍に追われたとき、主君である劉備の子ども阿斗を命がけで守り、敵軍を突破したあと、無事、劉備のもとに届けるものの、劉備は阿斗を粗雑に扱い、もう少しで大切な部下を失うことになったと趙雲子龍を労わる場面に重なります。
ダビデも劉備も部下を思い、労わるという点で一致しますが、ダビデはさらに上をいきます。それは神を見上げ、礼拝したという点です。勇士たちの行為はまさに主に対する献身であり、ゆえにダビデも、自分を神とするのではなく、彼らのもってきた杯を主にささげ、礼拝したのです。
人は指導者のどこに魅力を感じるのでしょう、そのリーダーが何を見ているのかによるところが大きいかと思います。神を見上げ、敬虔に歩む人、そういう人に、私たちはやはり魅力を感じます。ダビデの生涯、続きが楽しみですね。
12章には、ダビデのもとに人が集まってきた様子が記されています。
ダビデが「ツィケラグ」に引きこもっていたのは、サウルに命を狙われていたためです。ダビデは、誠心誠意仕えてきた主人に誤解され、追われ、命まで狙われ、敵国であるペリシテに逃げなければならないほど深刻な状況でした。相当なストレスといってよいでしょう。いつの時代でも人間関係の苦しみは大きな痛みを伴います。ただ、ダビデにとって不遇の時代ともいえるこのとき、彼のもとに集まってきた人々がいました。それが、この章に記されている人々です。
なかでも16節には、ベニヤミン族から来たとあります。ベニヤミン族といえば、サウル王の一族です。しかも29節をみると、彼らは「サウルの家の任務についていた」人々です。スパイかもしれません。ダビデの寝首をとりに来た可能性が十分にあります。しかし、もし本心からダビデのもとに来たのであれば、彼らは身近な者たちをも断ち切って来たまことの勇者たちであります。どのように対応するか、非常に難しい決断に迫られました。
ダビデはどうしたでしょう? 17節をみると、主に委ねつつ、彼らを受け入れたのです。もし彼らが不当な思いであれば、主が裁かれる。正当な思いであれば一つ心となって歩める。
私たちも難しい決断に迫られることがあります。そのとき主に信頼しつつ進んでいくことができるという特権を思い起こすものでありましょう。
注) 12章は5節以降、新改訳の節数+1節が、新共同訳の該当箇所となります。