6章は、レビ族の系図が記されています。歴代誌は、捕囚より帰還した民が、主への礼拝を確立していくために記された書巻です。その意味において、6章に記されているレビ族の系図は民の礼拝に仕えるという点でも欠かせないものであったといえるでしょう。
6章全体を見るなかで、一人一人の名前を系図に記すことによって初めて気づいたことがあります。それは、(1) 3〜8節と50〜53節のアロンの系図、(2) 16〜21節と41〜43節のゲルショムの系図、(3) 26〜28節と33〜35節のエルカナの系図です。これらの系図は、二重に記されています。すなわち、先祖から子孫へ、さらに子孫から先祖へと記しているのです。このことは、この系図に、より重きを置いていたからこそ、限られたスペースのなかにあっても二重に記したのでありましょう。
では、そこにいる人々はどのような人たちでしょうか? そこにあったのは主の幕屋や宮に仕えて歩んだ人々、その子孫であります。主の宮に仕えて歩む、その尊さから二重に記されたのでありましょう。これは私たちの教会でいうならば、礼拝の奉仕者の名前であり、礼拝奉仕者の系図といっても良いかもしれません。この家系は、代々神の宮に仕えて歩んでいた。賛美をささげていた。そういった事柄は、荒涼としたエルサレムを目の当たりにしたエズラの時代、これから礼拝をささげて歩もうと願っている彼らに、大きな励ましとなったことでありましょう。
私たちも、6章の系図のように、真の主に仕えさせていただく祝福を覚えつつ、主の恵みによって祝福の系図をそれぞれの教会において築かせていただければと思います。
注) 新改訳の6章の内容は、新共同訳の5章27節〜6章65節に該当します。
7章には、イッサカル族、ベニヤミン族、ナフタリ族、マナセ族、エフライム族、アシェル族の系図が記されています。このなかでも、13節にあるナフタリ族の記述はごく僅かです。北イスラエルが滅んで200年以上も経っているので、おそらく系図そのもの、資料の多くが失われたためではないかと推測します。
しかし、歴代誌の記者は、少ないからといってナフタリの系図を省こうとはしませんでした。たとえ今、失われた部族であっても、資料が少なくとも、1節分しか記すものがなかったとしても、書き残すことによって、彼らは私たちの部族であった。そのことを明確に示しています。
教会においても、私たちは、時々、自分の小ささに圧倒されて、ほとんど無価値のように感じてしまう。そういうことがあるかもしれません。しかし主は、小さく弱い私たちであっても覚えてくださっています。そのことをナフタリのこの小さな記述をとおして、ともに心に留めたいと思います。