系図の記録がさらに続きます。
私たち日本人も、系図の意味合いを多少は知らないわけではありません。徳川さんや島津さん上杉さん毛利さん等にお会いすると、さぞや由緒正しい流れを汲む方かと想像を広げますし、あるスケーターなども、マスコミではわざわざ織田信長の子孫として紹介されたわけです。
系図はその人のアイデンティティに関わりますが、イスラエルの民にとっては特にそうでした。
3章1〜9節では、ダビデの子どものうち、あまり知られていないダニエルなどの名前も含めて20人だけ記載されました。10節からはソロモン以降の南ユダの王室系図。4章ではイスラエル12部族中、ヨルダン川西岸の南半分の地域に暮らしたユダとシメオンの系図、そして5章ではヨルダン川東岸に展開したルベンとガド、マナセの半部族について、系図が記載されています。
旧約聖書に名前が記録されるという、この上ない名誉を手にした人々は、当然のことながら当時の大集団の部族長の超エリートであったり、最高位の政治指導者のうちのごく限られた人たちでした。
しかしなかには、亜麻布や陶器を扱う王室御用達の氏族もいました(4章21〜23節)。
それにしても、ここに名を連ねられることのなんと名誉なことでしょうか。
人間の心は、たかが学級委員の選挙であっても、我が名に1票でも2票でも入っていれば、悪い気はしないものです。
ましてや死ぬほど努力をして勝ち得る甲子園の優勝旗やオリンピックのメダル、レコード大賞やアカデミー賞や直木賞や、そしてあのノーベル賞や・・・。
確かにこれらの受賞者として名を連ねることは、人生において神の恵みと祝福をいただいたと思っても、ある意味では間違いではないと思います。
しかし、しかしです。それらは決して神の賞賛ではなく、恵みにすぎないのです。5章25〜26節をご覧ください。
勇士であり名のあった部族長たちが、主なる神に罪を犯したために、やがてその国力は衰退し、城壁は落ち、ついに一族も奴隷となって知らない土地へ捕囚されていくのです。
歴史に名を、その誇り高き名を刻まれながら、しかしその大切な名前を恥辱まみれにしてしまった記録が、ここにあるのです。
歴代誌の著者は言います。神の恵みの価値を知らない者は、それを失う。
選ばれし栄光の民がなぜ鎖に引かれアッシリアへ行ったか、その歴史を忘れてはいけない!と。