24章1節の「エホヤキムの時代」とは、神の言葉がナイフで削られ、暖炉に燃やされる時代でした(エレミヤ36章23節)。エホヤキムはパロ(ファラオ)・ネコに建てられたエジプトの傀儡政権でしたが、時代はすでにバビロンに移ろうとしていました。それで彼は一度はバビロンに屈しましすが、3年後の反逆のために捕囚処置となり(第二歴代36章6節)、そのためユダはダニエルはじめ多くの優秀な人材を失うことになります(ダニエル1章1〜2節)。
後を継いだエホヤキンにも、再びバビロンの触手が襲いかかります(24章10節)。わずか18歳の、真実な神を信じていない王には荷が重過ぎました。彼は母や家来、高官たちと相談して降伏を決めます。たった3ヵ月の在位でしたが、聖書はエホヤキンも神の前に悪を重ねた王であったと、宣告します(24章9節)。
この時も多くの優秀な頭脳が失われます(24章14節)。高官や職人、鍛冶屋は、今日流ならハイテクの先端技術者や知識人たちでしょうか。そのなかにはエゼキエルも混じっていました(エゼキエル1章1節)。こういうわけで、南ユダ王国の崩壊は、単に都市の破壊と荒廃にとどまらず、神に従い愛される民が多数流出し失われ、散らされる時代でもありました。
さて最後の王になるのがゼデキヤです(24章17節)。彼はヨシヤ王の子どもでした。つまりエホアハズ、エホヤキムらと異母兄弟になるのです。こうしてヨシヤの息子が3人も王になるのですが、どれも父親の優れた信仰を受け継ぎませんでした。私たちはここに、黙って親の背中を見てもらうだけで信仰継承が簡単に達成されるものではないことを、肝に銘じるべきです。
さてゼデキヤもバビロンに座らせてもらったはずの王位を何と誤解したのか、誰に唆されたのか、9年目にネブカデネザルに反抗し始めます。言わんことではない、すぐに大軍が攻め寄せて来、エルサレムを囲み、ネコの子一匹通さぬ布陣を張ります。ゼデキヤはその後城壁内に立て篭もり籠城しますが、ついに1年半して食料が尽きると守りは破れたのです(25章4節)。
彼は備えの薄そうな所を選んで脱出、突破しますが、ゼデキヤの兜首をあげようと執拗に追いかけてくる敵兵を振り切れずに、ついにエリコの草原で雑兵に捕まるのです。
ネブカデネザルはゼデキヤの目の前で彼の王子たちを惨殺し、そして彼の両眼をえぐって青銅の足かせにつないで、苦しみを増し加えます(25章7節)。
ゼデキヤが追跡兵の手さえ逃れられなかったのなら、まして私たちが神の恐ろしい裁きの手を逃れることができるでしょうか?私たちは自由を奪われ、家族を失い、健康を失い、すべてを失う前に、自分が惨めな罪人であることをはっきり知るべきです(哀歌5章21節)。
最後に、理由のないエホヤキンの釈放・厚遇は、福音の恵みを予感させます(25章27〜30節)。列王記の著者は、罪のなかで滅亡してゆくユダをじっくりと記録しながら、最終の4節で人の知恵にも力にもよらない神の恵みと光を、くっきりと照らしてくれたのです。