聖書中、名指しされて出現を預言された人物は、イエス様の他に3人しかいません。バプテスマのヨハネとペルシャのクロス王と、そしてヨシヤ王(第一列王13章2節)です。
アウグスチヌスの背後に、祈りをもって育てた母モニカがいたように、8歳で王位についたヨシヤにも心血なる祈りを注いだ母エディダがいたのではないでしょうか(22章1節)。
このヨシヤが目覚しい宗教改革の働きを始めたのは18年目26歳の頃からでした。神殿の修復工事中、書記シャファンは偶然発見された律法の書の重大さに気づきます。またヨシヤはその律法の書を聞いたとき、燦然と煌いた王服を引き裂いて、悔い改めの必要に気づくのです。この律法の書とは申命記だったのではないかと言われています。
ところで、もし発見したのが私なら、私はこの書の重大性に気づいたでしょうか?あなたならどうでしょうか?私たちにもショックを受けるような聖書の読み方が必要でしょう。
ヨシヤは決して悪人でも、身勝手な我が儘者でもありませんでした。けれども、彼は電気に打たれたように悔い改めたのです。神の言葉を聞き、先祖の罪とそして自分の罪に目が覚めたからでした。
ヨシヤは錚々たる重臣5人を派遣しました。行き先はエルサレムの第二区。ゴミが落ち、野良猫がうろつく街の中、普通の市民と共に住む女預言者フルダに指導を受けるためです。フルダは言いました。「この国と住民に災いをくだす。しかしあなたがこれを聞き、心を痛め、へりくだり、泣いたので、あなたの時代にそれが来ないよう延期する」と。
ヨシヤは直ちに神殿内にあふれる異教の神々、偶像の海にメスを入れ、掃海作業を断行するのです。
すべてのものをキデロンの谷に運び、焼き、打ち砕き、異教の礼拝所を破壊し汚し、最後は異教指導の祭司を処刑しました(23章4〜20節)。23章8節のゲバからベエル・シェバまでというのは、日本で言えば北海道の稚内から沖縄の那覇までという意味になります。
このようにしてエルサレム神殿から始まった宗教改革の炎は、ついに元隣国サマリヤの町々まで聖める火となりました。
ところで、このヨシヤの宗教改革は、今はもう昔の話でしょうか?いや、この篤き炎は列王記を読む私たちの心に飛び火して、燃え移らなければならないのではないでしょうか!これらのみことばからショックを受け、ひれ伏し、私たちの外なる偶像、内なる傲慢を点検、駆逐、一掃され、新たに教会にも燃え広がらねばならないのです。
パウロは言いました。「キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。・・・神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう」(第二コリント6章15〜16節)
旧約の聖徒の戦い、新約の解き明かし、みことばの一つ一つに生かされるキリスト者でありたいと願います。