第23火曜 列王記第二20章〜21章



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 ヒゼキヤは、死の病に冒されました。王宮のベッドに臥して苦しい息を吐いています。御殿医は匙を投げたような顔で、付き添っていたことでしょう。家来たちも二、三人集まればヒソヒソと容態の深刻さを噂し合いました。
 イザヤはそんな重病のヒゼキヤの枕辺に立ち、言います。
 「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。治らない」(20章1節)
 預言者はわざわざ衰弱している人のところに出かけてきて、「もう、助からん。あきらめろ。身辺整理しろ」と、言うのです。これは、「遺言して後継者を明確に決めておきなさい」という意味だとも言われています。
 私たちが病人を見舞うとき、どんな言葉を携えて行くでしょうか?「元気をだしてね。早く良くなってね」と言いながら、聖書にある慰めや希望を語ると思います。まさか色紙に、この20章1節を書く人はいないでしょう。しかしイザヤはヒゼキヤの死後、内乱が起こらないためにも、こう伝えなければならなかったのです。

 ところで私たちも、この1節の言葉を聞かなければなりません。
 ある日の新聞に、1人の白バイ警官の死が報じられていました。彼はその日、原付バイクの講習会の指導に出かけました。ところがその帰路、同僚3人と帰る途中、前輪がパンクしてハンドルを取られ、転倒し亡くなったのです。
 運転のプロが、まさかパンクで死ぬというのはあまりにも不運、予想外のことです。しかし実にそれが、私たちの命ではないでしょうか。
 それゆえ私たちは2つの点で死への備えをしなければなりません。
 1つは、神に会う備えです。私たちが死ぬとき、誰一人有効な援助ができるわけではありません。私たちは自分自身の平安のために、心を配っていなければならないのです。慰めの言葉、気休めの言葉をもらって、恐れおののきながら死を待つのでなく、神の前に人生を整理して、永遠の命を迎えるのです。
 もう1つは、残される家族も神の命に生かされるように、手を打っておくことです。私たちの人生は長いものではありません。打つべき手はきちんと打って、子どもや家族の信仰のため救いのため、最大限の工夫を凝らし、努めておくべきです。

 「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た」(20章5節)癒しの約束です。
 苦難の中で、ヒゼキヤの祈りはしばしば聞かれていました。そういう意味では彼はユダにおける祈りの王と呼ぶこともできるでしょう。
 「どうぞ私が精一杯、全き心で歩んできたことを思い出してください」(20章3節)
 「ただ憐れみしかいただけません。あなたの憐れみだけを懇願します」
 罪人が、そして信仰者が祈るのは、いつも神の憐れみこそを切に願う祈りなのです。


【信仰告白】

[2] 使徒信条