第23月曜 列王記第二18章〜19章



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 18章からヒゼキヤ王の話しになります。父アハズは最悪な王でしたが、母親アビの父がもし歴代誌第二26章5節に記された信仰の人なら、ヒゼキヤは今日流で言うなら、母親だけクリスチャンの家で育てられた立派な青年のような者かもしれません。

 さて注目は4節です。信仰者が異教に関わるものを打ち壊したならわかります。偶像や神棚仏壇を捨てたのならわかります。ところがヒゼキヤは、なんとモーセが作ったあの有名な青銅の蛇(民数記21章)も壊したのです。神の救いの象徴、十字架の予見ともなる、由緒正しくてイスラエル人には国宝以上に価値のある青銅の蛇を壊したのです。国民がそれを拝む風潮を危惧したからでした。
 これは、バアルやアシェラ像を壊す以上に霊的な決断力を必要としたことでしょう。

 海洋を長く航海する船舶は、船体にフジツボや貝が多量に付着し航行を危うくするそうです。同様に長く信仰生活をしていると気がつかないうちに経験や堆積物のネフシュタンが付着し、心の自由を奪い硬化させます。
 忠実に信仰に生きたキリスト者には素晴らしい想い出がたくさんあります。一生懸命トラクトを配ったこと、教会学校で奉仕し、役員で奔走した数十年・・・。しかし私たちの罪の赦しと救いは、過去の想い出のネフシュタンで支えられているのではありません。私たちは信仰の遺物に香を焚きながら安泰するのでなく、ただキリストの身代わりの死のゆえに救われたことだけをいつも思い出すべきです。

 19章では信仰の王ヒゼキヤが今、悩みと試練に遭っています。王宮での会議でラブ・シャケの尊大な言葉を聞いて彼の堅く握ったこぶしは悔しさに震え、顔も怒りで歪みました。こんな侮り、こんな嘲笑があるでしょうか!
 しかし状況はいたって惨めです。アッシリアに敵わないのです。ただただ臆病な亀のように手足をひっこめ、城に閉じ篭る以外、何もできなかったからです。
 このような状況で、けれど彼は第一にまっすぐ神殿に行きました。ぼろぼろの荒布と魂をまとって神の前に立ち、宮で祈るのです。
 第二に、イザヤに「祈ってくれ」と依頼しました。あなたは人生の危機のときに、「祈ってください」と頼める信頼できる知人を普段から築いてきたでしょうか?教会は、真に祈りあえる師が、あるいは友人が見つかる所です。今日でも多くのトップや大統領たちは、皆そういう知人を大切に持っているのです。

 さて最後に、神の言葉に注目してください。19章6節です。神はラブ・シャケの言葉をヒゼキヤに対するものでなく、主への冒涜、主ご自身への挑戦として聞いてくださいました。もはやこれはヒゼキヤの戦いではなく、主ご自身の戦いであることを、明らかにされたのです。実のところ神はヒゼキヤの戦いを援助してくださるのでなく、むしろ神の戦いに信仰者を参加させてくださるのです。私たちの戦いは、今もみな、そのような素晴らしい戦いなのです。


【信仰告白】

[2] 使徒信条