南ユダではヨタムの子アハズが、サウルから数えて第15代目の王に即位します。それはダビデの死からおよそ230年後のことでした。
わずか20歳の若さでの王位は、彼にも国家にも不幸だったでしょうか?しかし聖書は彼の未熟さや、経験の無さは一言も咎めていません。ただ、彼が北イスラエルの王たちと同じ不信仰の道を選んだことを、責めているのです。(16章3節)
南ユダの王20人のなかで、身内や母親について言及してもらえなかった王は、アハズだけです。
時代はユダの国力が衰退し、アラムや隣国北イスラエルら諸外国が、領土を食い尽くし、併合しようとその触手を延ばしてくる頃でした(16章5節)。
アハズはその攻撃に耐えましたが大損害を被ります(第二歴代28章)。彼がその数年間に及ぶ包囲と飢餓と不安に耐えるために選んだ方法は、神への祈りではなく、悔い改めでもなく、我が子を火中に押しやることだったようです。
当時、真鍮で作ったモレク像の内部に火を燃やし、真っ赤に焼けたその手に幼児を乗せて焼き殺し、悲鳴が聞こえぬよう楽器を鳴らしてはやし立てる儀式があったそうです。
アハズは異教の神に頼り、またアッシリアのしもべになることを誓います(16章7節)。その後は祭司のウリヤも含めて、国をあげてダマスコの祭壇のコピー作成にとりかかるという堕落腐敗ぶりに目を疑うのです。
さて17章は、北イスラエル王国最後の王ホセアの記録です。
かつてダビデ、ソロモンの栄華を誇った国の北半分が、ついに23代目でガラガラと崩れていくのをここに見るのです。紀元前8世紀ごろです。同時期の日本では、まだ文書はおろか縄文式土器以外ほとんど歴史資料が見い出せない、そんな時代です。
神は不信仰のイスラエルを罰し、悔い改めと立ち直りの機会を残すためにアッシリアを用意しました。しかしホセア王は当初アッシリアに服従を誓いますが、後に心変わりをし、エジプトに頼ろうと画策します(17章4節)。
ところが頼りにしていたエジプトは救援に来ず、包囲されて3年間「もうすぐ、もうすぐ、きっといつか・・・」そう自分に言い聞かせながら待ち続けますが、望みは空しく潰え去りました。ついにサマリヤは陥落し、国家の滅亡です。
人生に望みは必要です。耐えて、苦しみを乗り越える希望は必要です。けれども偽薬が人を騙し治癒のチャンスを奪うのと同様、虚しい望み不在の神々への信仰は信じた人の人生を台無しにします。人生の望みだけは、決して不確かなものに託しては駄目なのです。
北イスラエルに立てられた王20人のうち、7人が謀反で惨殺、それ以外にも戦死、事故死、神の裁き、自殺等で4人亡くなっている悲惨さです!
聖書は言います。「あなたがたの神、主だけを恐れなければならない」(17章39節)