第22金曜 列王記第二12章〜13章



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 人にはよい指導者、教師が必要です。よい導き手に恵まれた人は幸いです。私たちにとって、聖書こそ、よい導き手でしょう。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光」(詩篇119篇105節)ですし、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益」(第二テモテ3章16節)だからです。
 しかし、私たちは、聖書が唯一の規範とわかっていても、つい、聖書から離れ、神のみことばとはほど遠い生活を送りやすいものです。アタルヤの後、ユダの王になったヨアシュがそうでした。彼は祭司エホヤダが教えた間はいつも主の目にかなうことを行いましたが、それはエホヤダが生きている間だけでした。彼はエホヤダの教えをむしろ窮屈に感じていたのではないでしょうか。それが証拠に神殿の修理は遅々として進みませんでしたし、エホヤダが130歳で死ぬと(第二歴代24章15節)、ユダのつかさたちが来て、王を伏し拝むようになったのです(第二歴代24章17節)。
 私たちのなかにも主の戒めを窮屈に感じる人がいます。それを「神は愛だから」ということばで逃げてしまう傾向があります。しかし、本当に神を愛しているなら、神の命令は重荷とはなりません(第一ヨハネ5章3節)。

 アラムの王ハザエルがガテやエルサレムを攻め、エフーの子エホアハズの時代にイスラエルが一時期アラムの支配を受けたのは、彼らの不信仰を主が怒られたからでしょう。しかし、そのエホアハズの願いにさえ、主は答えてくださいました。
 彼はこのとき、不信仰な者をも愛して、まことの神に立ち返ることを忍耐をもって願っておられる神の愛に、気がつくべきでした。しかし、彼は気づきませんでした。それゆえ神は再びイスラエルを打たれました。ただ、それでもなお、主は、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約のために、彼らを恵み、あわれみ、顧みて、彼らを滅ぼし尽くすことは望まず、彼らから御顔をそむけられることはありませんでした。
 主は、なんと愛と忍耐に富んでおられることでしょうか。このような主であるからこそ、私たちもまた主の救いにあずからせてもらっているのだということを覚えなければなりません。


【信仰告白】

[2] 使徒信条