第22火曜 列王記第二6章〜7章



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 私たちの人生には思いもかけないことがときとして起こります。預言者の仲間が借り物の斧の頭をヨルダン川に落としたのもその一例でしょう。アラムの王のはかりごとがイスラエルの王に筒抜けになっていることもアラムの王にとってはまさかと思うことだったでしょう。
 しかし、思いがけない事態に遭遇したとき、それにどう対応するかは信仰のある人とそうでない人とでは違います。斧を誤ってヨルダン川に落とした預言者は、エリシャに助けを求めました。一方、アラムの王は自分の力に頼って、エリシャを捕らえるために大軍を派遣しました。彼にはエリシャとともにおられる神が見えませんでした。霊的な目がふさがれておりました。霊的な目がふさがれているという点ではエリシャの召使いも同じでした。イスラエルの王も、自分がサマリヤまで連れて来たのでもないアラムの軍を打って、自分の手柄のようにしようとしました。しかし、これはエリシャの反対で実現しませんでした。

 当時の戦争は、城壁を包囲して兵糧攻めにし、城内が疲弊して陥落するのを待つのが一般的な戦法でした。アラムがサマリヤを包囲したとき、悪いことに飢饉がさらに追い打ちをかけました。飢餓に苦しんだ2人の女の話が出てきますが、身の毛もよだつような凄まじい出来事です。イスラエルの王は、そこに至った責任をエリシャに転嫁しようとしました。
 しかし、それにもかかわらず、神はこのときサマリヤをアラムの手から救われました。その知らせは4人のツァラアト患者からもたらされました。彼らは病気のゆえに城内では生活することが赦されない人たちでした。社会から疎外された人たちによって救いの朗報がもたらされるとは、これも予期せぬことでしょう。
 私たちに対する救いの福音も、ベツレヘムの家畜小屋でお生まれになったイエス・キリストによってもたらされました。「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」のです(イザヤ53章2〜3節)。
 エリシャのことばを信じなかった侍従は、救いにあずかることができませんでした。


【信仰告白】

[2] 使徒信条