ヤロブアムに始まる北イスラエル王国の背信の歴史は、アハブの時代に頂点に達したと言ってよいでしょう。しかし神は、「だからイスラエル王国は駄目だ」と言ってすぐにさばかれることはされませんでした。むしろ、そのような彼らを愛し、忍耐をもって彼らが神に立ち返ることを望まれました。そのために神は、エリヤ、エリシャを送られたのです。
列王記第二3章からは、エリヤの後継者エリシャをとおして、イスラエル王国に対して神の示されたみわざが語られます。
3章では、イスラエルの王に対して、4章では、2人の女、すなわち貧しい預言者の妻と裕福なシュネムの女、そして預言者の仲間たちやエリシャの召使いに対して、神のみわざがあらわされました。
一国の指導者から市井に住む名もなき市民に至るまで、偶像礼拝に走る者にも信仰篤い者にも、また、裕福な者にも貧しい者にも、地位や身分に関係なく、経済的な力にも関係なく、同じように主のみわざは示されました。それはどのような人をも神が愛しておられることのあらわれでしょう。
それぞれの人たちは、エリシャをとおして語られる神のことばに、どう答えたでしょうか。
イスラエルの王には、「この谷にみぞを掘れ」と水路を掘ることを命じられました。一方、預言者の妻には、「隣の人みなから、からの器を借りて来て、その器に家にあるただ一つの油つぼから油を注ぐ」ように命じられました。
神は、それぞれの力に応じて、みことばに従うことを求められます。イスラエルの王は水路を掘ったでしょうし、預言者の妻も素直に神のみことばに従いました。エリシャの召使いも、「彼らは食べて残すだろう」という主のことばを信じました。しかし、シュネムの女の息子が死んだ場合は、これはもう人間の力ではどうすることもできません。彼女はひたすら神の力に頼りました。
私たちも、自分の力ではどうしても乗り越えられない壁に直面したときには、神に頼り、みことばを聞き、その意味がよく分からなくてもみことばに従うことが必要だと思います。そうすれば、神がその壁を乗り越えさせてくださると思います。