人は、危機を通して神に出会うチャンスが与えられる。苦しみは神に求める必要性を覚えさせる主の介入である。にもかかわらず、アハズヤは弱さを覚えた際、癒しに効果があるとされていた偶像に頼る。バアル・ゼブブは、それまで彼が信奉していたところのバアル神とは異なる。なんでもよいから解決を得たいとの藁にもすがるような思いが表れている。
エリヤは主のことばを使者に告げる(3〜4節)。天からの火とは、主に求めなかったアハズヤの行為に対する神の怒り。エリヤがアハズヤに直接宣言した言葉は、これまでの預言とぶれがない。三度同じ言葉が語られる点と、エリヤと使者とのやりとりからわかるのは、イスラエルに命をも支配するところの真の神がおられるとの事実である。
エリヤが天に上げられる際、エリヤは、ギルガル→ベテル→エリコ→ヨルダン川へと向かう。ぐるっと一周するかのようなコースである。これは、それぞれの地に住む預言者集団に後継者エリシャを紹介するためか、エリシャが後をついてくるかをテストしたためか、あるいはイスラエル史における重要地点(*注)を巡ることにより主の御業を回顧させたためか、意見が分かれるところである。いずれにせよこの旅を通し、エリシャはエリヤの後継者として、備えと引き継ぎを受けることになる。
エリシャの求めた「二つの分け前」(9節)とは、相続財産の2倍の分け前を受ける長子の権利と重ね合わせた要求であり、後継者としての霊的立場を求めたものである。エリシャは己の乏しさに気づいていたのだろう。エリヤは、それは主が与えるものであり、もし天に上げられる様子を見ることができれば与えられると答える。
エリヤが天に上ったのは竜巻による。火の戦車と馬とは、二人の間を裂いたものであって、天と地の厳かな区別を意味する。エリシャは事の霊的様子を見ることが許され、神がともにいてくださることを体験するに至った。神の霊が留まる様子は他者にも明らかにされる。
注) いずれの地も重要地点。イスラエルの民がヨルダン川を渡った後に足を踏み入れた最初の地ギルガル、アブラハムとヤコブに神がご自身を表されたベテル、主の戦いの勝利を体験したエリコ、モーセからヨシュアへの交代を表すモーセが葬られた地ヨルダン川東岸。
エリコ、ベテルをめぐるエリシャの姿から、不信仰がはびこる地のきよめを見る。エリコは、過去に神のさばきによりのろわれていた地。のろいの象徴のようにしてその地の水は汚れていた。エリシャは水の源を癒し、その地に住む者が再び生きられるようにした。
ベテルはかつて神が臨在を示された地であるが、皮肉にもヤロブアム王以降、金の子牛が置かれ、霊的衰退を辿る。バアル信仰がはびこる様子を象徴するかのように、神の預言者を愚弄する子どもたちが登場する。エリシャは主の名によってそれを厳しく裁いた。どちらの地でなされたことも、神のきよさを表す業である。