これはアッシリアの北からの脅威によって南に展開せざるえを得なくなったアラムが領地拡大のためにしかけてきた戦争であろう。しかし聖書は本戦いを神に対する挑戦として捉え、神ご自身が戦われる様子を記す。
アラムの脅威は北イスラエルの首都サマリアを取り囲むほどになり(1節)、アハブはアラムに対し、一旦は弱さを認めて服従の姿勢を見せる。しかしなおも高圧的にでるアラムに対し、戦うことを決意する。11節のアハブの言葉は、まだ戦いもしないのに誇るな、との警告。
13節以降、無力を自覚するアハブの、主に対する素直な姿勢が続く。諸国の首長に属する若い者とは、まだ力が乏しいと捉えられていた者たちのこと。アハブは主の言葉どおり事を進める。一方のアラムは、数を理由におごり高ぶっており、その姿勢は王の酒を飲む姿に象徴されている(12・16節)。この戦いで北イスラエル軍はアラムに大損害を与える。悪王アハブの治めるイスラエルとは言え、神が契約を結ばれた国であるがゆえに、神は「主を知らせるため」立ちあがられた(13節)。
続く戦いも神を侮るアラムに対する裁きを記す。アラムは先の戦いでイスラエルの背後に神がいることを知るが、あくまで山地の神としての理解にとどまる(23節。イスラエルの重要地点は山頂にある)。平地において有利な武器を揃えていたアラム軍はアフェク(ガリラヤ湖東側)に陣を敷き、戦いに備える。神は、ご自身が地域に限定されず、唯一の主であることをさらに知らせるため(28節)、徹底的に敵の軍を打ち破られた。
この戦いはそのように、主が戦われた主のための戦いであったにも関わらず、アハブは自分の功績によったかのごとくに誇り、ベン・ハダデを生かして帰らせる。提示された条件に魅力を感じたのだろう。知らされたはずの主に対する視点が欠落している。
預言者の出来事(35節以降)は、主をないがしろにする行為の危険を伝える。主のことばに聞き従わず獅子に殺される人の姿も、見張りの役目を怠った行為の結末を伝える預言も、共に主を無視した当然の裁きを伝えている。
アハブの愚行はピークを迎える。今度は土地をめぐる罪である。イスラエルにおいて土地は主から与えられたものであり、神の民に属していることを示す証拠でもあった。いたずらに売買することはできない。
しかし外国の王のモデルしか知らぬイゼベルにとっては、信仰的な言葉を使ってナボテを殺し(10節)、土地を奪い取ることなどは容易なことであった。イゼベルの行為を容認したアハブは同罪とみなされ、ここにアハブの家の罪が満ちる。
20節以降のアハブへの宣告はエリヤの言葉と主のことばが重なり合うように書かれており、取り消すことのできない実現する言葉となる。この宣告を聞き、アハブはへりくだるよりほかなかった。
なんと神はこのアハブを見て、あわれまれ、彼の後の時代に裁きを延期される。神のあわれみは尽きない。