アハブはエリヤに会うなり、「煩わす者」と発言し、苦難の原因をエリヤに帰す。干ばつは、アハブに悔い改めを迫るものであったが、彼は自らの罪に気づかない。エリヤは「あなたこそ」と諭し、雨が降ることの告知前に、根本的な罪(バアル崇拝の誤り)を指摘するため、バアルの預言者との対決に臨む。
イスラエルの惨憺たる状態と、バアル神のむなしさが浮き彫りにされる。
・イスラエルの状態
民はどっちつかずによろめいている(元の意味は「足を引きずる」)。王の手前、決断することもできない(21節)。バアルの預言者450人に対し、対決する主の預言者はエリヤ1人(22節。主の預言者に対する大迫害のため)。目の前には壊れた主の祭壇(30節)。
・バアル神のむなしさ
そもそも豊穣をもたらす雨季と関連するバアル信仰が、干ばつの被害に見舞われていること自体、矛盾。対決の際、手には雷を持つとされるバアルが、火をつけることなど容易と思われるのに、無反応。エリヤはバアルがただの人であるかのように皮肉る(27節)。26節の「踊り回った」は、21節の「よろめいている」(足を引きずる)と同じ語源。バアル信仰はよろめきにすぎない。一方エリヤは、祭壇と溝に水を満たし、神以外の一切の原因を排除する。単純な祈りは、うるさい行為と対照的。主が神であることが示されることと、民の回心とを求める祈りが聞かれる(38〜39節)。
干ばつの根本原因が対処された後、大雨がもたらされる。エリヤの行為は彼の謙虚で忍耐強い祈りの姿勢を表しているものと思われる(42・43節)。勝利の凱旋のようにしてエリヤはアハブを引き連れイズレエルの門へ。
父オムリのフェニキア人との友好政策を引き継ぎ、アハブはイゼベルと結婚した。このイゼベルはバアルの宣教者と言えるほど熱心な信奉者であり、エリヤを激しく迫害する。エリヤは孤独感と被害者意識とを抱え洞窟に入る。これは迫害者からの逃亡を示すとともに神との出会いを待ち望んでいる姿勢。
9・13節の主の問いは、場所とともに主との関係を問うている。エリヤ自身に自らの状況を確認させたのである。聖書中、似た問いは、通常の心理状態にない者たちに語られている点で共通する。エリヤへの神の取り扱いが始まる。
エリヤは現状を述べる。そのエリヤに対して主は自然現象の脅威とともに、最終的にはみことばによって神の臨在を体験させた。エリヤは恐れ、主の姿を直接見ないようにと顔を隠して主の前に立った。神を間近で体験した聖書の人物としてアブラハム、ハガル、モーセ、ハンナなどを挙げることができるが、彼らは皆臨在を体験し、自らの状況を確認、新たな行動への力を得る。エリヤも然り。
信仰者は、みことばを通して神がおられることを確認することによって、力を得る。主の臨在を前に、人は恐れおののき、自らの存在の小ささと、主の偉大さを知るに至る。そこに向かう力(パン菓子と水)も主が与えてくださることは恵み。