第21火曜 列王記第一16章〜17章



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

【16章】 転げ落ちるイスラエル

 続く王の統治した年数はバシャ24年、エラ2年、ジムリ7日。統治年数の違いにかかわらず、主の王たちに対する評価は一定である。バシャ家の滅亡は「彼が罪を犯し、イスラエルに罪を犯させ、主の怒りを引き起こしたため」(2・7・13節)であり、ジムリもまた「悪を行い、ヤロブアムの罪を引き継ぎ、イスラエルに罪を犯させた」(19節)ゆえに滅びる。指導者の罪は民にも影響を与え、それゆえ主の怒りが引き起こされる。
 政局が揺れ動くなか、二大勢力が残る(21節)。王は本来主の召しによって立てられるが、ここでは力の強さによって決定される。悪名高いオムリ王朝のスタートらしい。
 オムリの時代には脅威も存在した。ダマスコのアラム人の王ベン・ハダデ1世はバシャを襲い、北ガリラヤを荒らした。アレッポで見つかった記念碑には、ベン・ハダデの支配がシリアの北まで達していたことを示している。内乱におけるイスラエルの弱体化に付け込み、襲ったのだろう。さらにアッシリアの脅威も徐々に広がっており、オムリの時代にはレバノンまで勢力を広げている。オムリはこれらの脅威に対し、内部の平和の優先、ユダとの友好関係、フェニキア人との親密な結びつき、アラム人たちに対する厳しい姿勢をもって臨んだ。彼の政策は功を奏し、イスラエルは一時的に経済的安定期を迎える。モアブを属国とすることに成功したことを示す歴史資料「メシャ石碑」などからもその様子はうかがえるし、都をティルツァから戦略的な視点によりサマリヤに移したこと(24節)もまた、力の表れと言えるだろう。しかし聖書のオムリへの評価は低く、「主の目の前に悪を行った」という一語に尽きる。主がご覧になる点は、主の前での姿勢にある。
 アハブの出現は、これまでの悪のピークとも言える(30〜33節)。その時代の極度の霊的荒廃ぶりを示すかのように、主のことばをないがしろにするエリコの再建とその裁きが描かれる。こうした惨憺たる状況のなかで、神はなおもイスラエルをあわれみ、神の人エリヤを表舞台に登場させる。主は泥沼に陥る私たちに御手をさしのばしてくださるお方である。

【17章】 主のことばのとおりになる

 神はエリヤを通して、イスラエルに「主のことばは実現する」(1節)とのメッセージを伝える。主のことばの確かさを知るとき、人は主を恐れることを学ぶのである。事実エリヤの歩みは主のことばのみが実現することを表すような生涯であった。
 「鳥がエリヤを養う」(4節)、「異国のやもめが神の人を養う」(9節)とのことばは、人間的な視点からすれば信じ難い出来事であるが、結果は16節の通り。17節以降のやもめの息子の死は、やもめ自身も取り扱われるきっかけとなる。死体の上に身を伏せる行為(21節)は、息子の死と自分のいのちを重ね合わせていることを象徴しているか。これらの出来事により、やもめは自分の罪を知り(18節)、17章のまとめとしてふさわしい信仰告白へと至る(24節)。


【信仰告白】

[2] 使徒信条