第20木曜 列王記第一8章



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】
「ソロモンの祈り」

【並行記事】

 歴代誌第二5〜7章

【概要】

 神殿が完成すると、祭司たちによって運ばれてきた契約の箱が神殿に安置されました。すると、雲が主の宮に満ち、主の栄光が宮に満ちました。ソロモンは感動のなかで民の前で主に祈りをささげます。

【適用】

 完成してまずソロモンによって感謝の祈りがささげられました。私たちが事を成したとき、まずするべきことは、主への感謝の祈りです。

 ソロモンは、「神ははたして地の上に住まわれるでしょうか」(8章27節)と述べ、主が建物に入るような小さなお方ではないことを告白しています。偶像の神とは違う大きな神観をソロモンは持っていました。私たちも神様を小さく見るのではなく、ソロモンのように「上は天、下は地にも、あなたのような神はほかにありません」(8章23節)と、この天地万物を造られた大きな神様をほめたたえましょう。

 ソロモンの祈りはイスラエルのためだけではなく、外国人が宮に来て祈るときのことにまで及んでいました(8章41節)。自分の家族、自分の教会、自分の国についてだけ祈っていませんか。隣の家族、隣の教会、隣の国や日本に来ている外国人のためにも祈りましょう。

 ソロモンの祈りは、罪の赦しについて多く述べられています。「罪を犯さない人間はひとりもいないのですから」(8章46節)。私たちは罪を犯しやすい人間であることを認めて、一日一日主に罪を告白して、キリストの十字架の血潮による赦しの恵みを覚えつつ歩んでいきましょう。

 民は神殿完成礼拝の後、心楽しく帰って行きました(8章66節)。私たちが主への感謝をもって心を一つにして礼拝をささげるなら、帰り道は決して重い足取りとはならず、心楽しく軽やかな足取りになります。礼拝とはそのような場所です。心に重荷を抱えて礼拝に行ったとしても、主に礼拝をささげることにより私たちの心は軽やかにされるのです。ぜひ教会の礼拝に行ってみませんか。
 また、すでに礼拝に集っている方は、帰り道がどのような足取りになっているのか考えてみましょう。奉仕が重荷となり、または人を見て腹を立てて、重い足取りになっているでしょうか。それとも主を見あげ、主への礼拝によって心が変えられ、軽い足取りとなっていますか。


【信仰告白】

[2] 使徒信条