アブシャロムは王に対して謀反を企てた。親衛隊を設置し、利益誘導作戦で、地道にイスラエルの人心を盗み、仲間を増やしていった。しかし、これは信仰者のやり方とは違った。信仰者は、人の心を獲得し、神にその目を向けさせていくからだ。
ダビデはエルサレムを出て行った。王宮の生活からあてのない旅に出る悲しみ、追われる苦しみ、アヒトフェルの裏切り、アブシャロムへの対応の失敗の後悔、息子から反逆される悲しみ・・・、しかもそのすべての原因は自分にあると思うと、ますますどうしようもない思いに苛まれる。
しかし、そこにも神のあわれみはあった。アブシャロム陣営の中枢にフシャイが置かれたのである。
ダビデの親友ヨナタンの息子メフィボシェテのしもべツィバ、ゲラの子シムイ、ツェルヤの子アビシャイ、フシャイと、次々に登場する。そのなかの誰が味方で誰が敵なのか、ダビデにとってもアブシャロムにとっても大きな関心事であった。
しかし、信仰者ダビデにとっては、それ以上に、神のことばが誰にあり、神が誰と共におられるのか、ということが重要であった。ダビデとアブシャロムの大きな違いは、ダビデは主のあわれみを求め主に期待し、アブシャロムは自分を信じ神の導きを求めないということである。
私たちも常に、自分が誰といるのか、誰のことばを信じ歩むのか、問われているように思う。