14章のテコアの女の訴えは、預言者ナタンのたとえと似ている。共に仮想事件であり、王の究極的な判決を求めるものであり、皮肉にも王自身に判決が下されるものである。しかし、ナタンの訴えは、王の正義感をかき立て厳罰を宣告させたのに対して、テコアの女の訴えは、あわれみを引き出して恩赦を宣告させた。
ダビデはアブシャロムの帰還を許した。しかし、帰還を許可しただけであって、アブシャロムは家から出ることはできず、王の顔を見ることもなかった。3年間の亡命、2年間の謹慎処分の後、王とアブシャロムは口づけを交わす。これは和解を表すことであるが、表面的なものであった。
ダビデは、自分の大きな罪ゆえにしっかりと立つことができなくなり、神の指示を仰ぐこともしなくなったようである。私たちも罪を犯してしまったとき、下を向き、神を仰ぎ見るのが怖くなり、逃げ、沈黙してしまうことがしばしばある。しかし、神はそれを望んではいない。失敗や挫折のなかにあっても、神との関係を続けていくことこそ、神が望んでおられることだと思う。