ダビデは、かつてヨナタンと交わした契約(第一サムエル20章)を履行しようとします。探し出されたヨナタンの子メフィボシェテ。3節のことばから彼は「足」にハンディを持っていたことが分かります。
ダビデの前に連れてこられ、ダビデにひれ伏して礼をしているメフィボシェテの心臓の鼓動。その音はここには当然ながら記されていません。しかし、その鼓動が聞こえたならそれは相当なものであったと考えられます。彼の叔父はかつてのサウルの子イシュ・ボシェテ。彼の首がダビデのもとに運ばれたことをメフィボシェテは知っていたでしょう。何をされるかわからない恐れに震える彼が聞いたダビデの言葉は7節です。「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい」。このようにダビデはヨナタンとの契約ゆえに、恵みを施し、土地を返し、食事を用意することを約束したのでした。
私たちは生まれながらに神様と敵対していた者でした。しかし当然滅びに向かう私たちを、神様は憐れみ、キリストのゆえに罪を赦し、神の子どもとして迎えてくださいました。ちょうどメフィボシェテがダビデから「恵み」を受けたようにです。
2種類の人々が登場します。1つめは、恵みを携える人々です。アモンの王に真実を尽くそうと、慰めを伝えようとしたダビデがいました。さらに、そのことばを伝えるために使者として遣わされた家来たちがそうでした。彼らは王のことばを預かって、アモンの王ハヌンのもとに向かったのでした。しかし、そのハヌンからは屈辱を受けた人々です。
もう1つの人々は、恵みを拒否する人たちです。アモンの王ハヌンがそうでした。アモンのつかさたちがそうでした。真実を尽くそう、恵みを施そう、慰めをかけよう、そのようなダビデの行為を、この人々は疑い、拒絶します。
恵みを携え、慰めを携えたダビデの家来たちは、誤解され、辱めを受けます。彼らに対して、王ダビデは、彼らに適切な場所を設け、恥に恥が重なることのないよう配慮します(5節)。しかし、恵みを拒否した人たちはどうだったでしょうか。ダビデの真実を拒否したアモン人の勢力は、ここで弱められ、破られます(6〜19節)。主に仕え、主を伝えるうえで私たちの味わう辱めを、私たちの王キリストはよく知って、まことに配慮を備えてくださるお方です。
ここでダビデがおこなったこと。それは、夫のいる女性と関係を結ぶ行為、姦淫です。そしてそれを実現させるために、彼は主から与えられた王としての権力を用いたのでした。
6節以降、ダビデは自分の罪を隠すために、バテシェバの夫を戦場から呼び戻し、妻と時を過ごすようにし、生まれて来る子をウリヤとの間の子にしようとします。しかし、これがうまくいかないと知ると、ウリヤを戦地で死ぬように前線に送ります。このダビデの隠蔽工作は成功し、ウリヤは死に、バテシェバはダビデの妻に迎えられます。しかし27節の最後には「ダビデの行ったことは主のみこころをそこなった」とあります。直訳すれば「ダビデの行ったことは主の目に、悪となった」となります。
勝利を重ね、イスラエルの領土は広げられ、そして王宮も備えられていました。1節にあるように、戦地に将軍を遣わし、家来を遣わし、イスラエル全軍を遣わしていました。王としての権力は最高点。しかし順境のときにダビデは、あっけなく罪に陥っていった様子を11章は記します。ものごとがうまくいっているときこそ、「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」(第一コリント10章12節)のみことばを思い出しましょう。