振り返ればダビデは、サウル王にねたまれ、命を狙われました。追跡されていないときさえ彼は、サウルに追われているように感じ不安に襲われました。しかしサウルを王としておられたのは主ご自身。それゆえ、たとえ自分のいのちを狙う王であったとしても、自分は、王の命を奪うことなどできない。それは私の領分ではないのだからと。ダビデは最後まで、サウルという人物と自分との間に、主ご自身を見ていたのでありました(14・16節)。ここに、主を恐れて行動するダビデの姿があります。
長い期間をかけて、主はダビデを練り上げ、様々な境遇を用いて、主の目にかなう王として整えてこられました。そのようにして主の期待する王がイスラエルに立てられていく様子をサムエル記第二は記していきます。
主を恐れること。それは、人と自分の間に主がおられることを知ること。主はダビデになされたように、私たちをも、主に用いられる器となるよう練り上げてくださるお方です。
「恵みとまことによって、咎は贖われる。主を恐れることによって、人は悪を離れる」(箴言16章6節)
主の御声に従ってダビデ一行がヘブロンに移り住むと、ユダの人々がやって来て、彼に油を注ぎ、ユダの王に任命しました(4節)。確かに彼は、イスラエル「全土」の王となるべく、サムエルによって油そそぎを受けた人物でした。しかし、彼が王として任命されたのは12のイスラエル部族の一部族ユダの家においてのみです。イスラエル全土ではサウルの子イシュ・ボシェテが王となります(9節)。
ダビデは、不平を言えたかもしれません。「私は、こんな小さな部族、ユダの王ではなく、イスラエル全土を治めるほどの者」と。しかし、彼は、全貌を知ることはないとしても、主のご計画に期待しながら、主の開いて下さった状況を、感謝して受けとめていくのでした。ユダの王となった期間は7年半(11節)、主のご計画を求め、従い、満足しながら時を過ごしていったでしょう。
実はこの期間、様々な内乱がありました。その皮切りが12〜32節の部下たちの対立です。しかし、ダビデは5章3節で、イスラエルの王とされるに至るまで、決して力に訴えて事を行おうとはしません。主のご計画を信じ、主の導きを求め、示される道に従うダビデの姿がまぶしく映ります。