ダビデは、イスラエルの敵ペリシテ人の地に身を寄せ、自らの安全を確保していました。彼の家族も、彼の従える部下たちも、ダビデに引きいられ、ペリシテの地、ツィケラグでの生活を始めていました。ダビデはイスラエル人から略奪行為をするポーズをとって、ペリシテ人の王アキシュの信用を勝ち取っていきました。28章1〜2節によれば、王アキシュの護衛に任命されるほどにもなっていました。しかし問題は、王の護衛に任命され、これから向かうこととなったのが、イスラエルに対する戦いであったということでした。
この章では、主のことばは記されません。しかし、一度踏み込んでしまったために、その穴から足を引き上げられなくなって、どうしようもなくなっているダビデは、不思議な方法で最悪の事態から守られていく様子がつづられます。そこに神の大きな摂理の御手を覚える29章です。
一方、ダビデ一行が、家族のいるツィケラグに戻ると、妻、子どもたちがアマレク人によって連れ去られておりました。そのため民はダビデを殺そうと言い出し、ダビデは非常に悩みます。今一度自分の歩みをふりかえざるを得なかったでしょう。「私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地にのがれるより他に道はない」そう心に思い、突然のようにして自らの正しいとする道に飛び出したダビデ。しかし今、民からも命を狙われる始末。すべてがなくなろうとしたその時に、彼は本当に戻るべき、信頼すべき方に気づかされるのでした。6節の「主によって奮い立った」は、直訳すると「主にあって堅固にされる。強くなる」といった意味です。
主の導きを求めて臨んだアマレクへの戦いは、疲れた200名を残した400名であったにもかかわらず、大勝利をおさめ、分捕りものはすべて返って来ました。戦利品の分け方について不一致が起こりますが、勝利を与えてくださった主の栄光を見上げ、ともに恵みを分け合うように、とダビデは主にある秩序を教えます。前線に出て戦いに参加する人がいる。しかし面に出なくても、背後で戦いに参加している人がいる。「主が」備えてくださった御業・報酬を「共に」喜び、「共に」分かち合う麗しい主の共同体の姿を見る30章です。
ペリシテとの戦いに敗れた末、サウルの武具は偶像アシュタロテの宮に奉納され、その亡骸はさらしものになりました(9〜10節)。イスラエルの霊的な敗北をもあらわすような出来事です。
サムエル記第一のはじめでは、主の宮で悩み祈るハンナと、彼女を覚えてくださる主のあわれみを見ました。しかし、サムエル記第一の最後は、主の宮ではなく、偶像アシュタロテの宮。イスラエルをペリシテ人から救うために、民は王を求めました。しかし、その王がペリシテ人によって命を奪われていくイスラエルの敗北。不従順に対する主の応答の厳粛さを覚えて、12章14〜15・25節の主のみことばをもう一度読み返したいと思います。
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ6章23節)