ダビデ一行は、サウルと別れた後、パランという荒野に下って行きます(1節)。一行は変わらず600人という、決して少なくない人数。洞穴のあるごつごつとした山を越え、荒野を進む生活では、食料を得ることが切実な問題でありました。
かつてダビデとそのしもべたちは、カルメルの事業家ナバルのしもべたちに、良きことを行ないました(15〜16節)。そのナバルの家で羊の毛を刈る祝いが執り行われることを知ったダビデは(4節)、ある期待をしたわけです。「自分たちのかつての恩に報いて、きっと食事をわけてくれるだろう」と。しかし、期待を裏切るナバルの返事に、ダビデは憤り「めいめい自分の剣を身につけよ」と部下に命じるのでありました(21〜22節)。
しかし、復讐心でいきり立つダビデをなだめたのが、ナバルの妻アビガエル。彼女は、すぐさま食料を用意し、血を流す愚かさをダビデに説くのでありました(26節)。そして機知に富んだ彼女のことばを介して、実に主は、ご自身の約束をダビデに思い起こさせるのでありました。
28節「主は必ずご主人さまのために、長く続く家をお建てになるでしょう」
29節「ご主人さまのいのちは、あなたの神、主によって、いのちの袋にしまわれており、主はあなたの敵のいのちを石投げのくぼみに入れて投げつけられるでしょう」
「いのちの袋」。それは羊飼いが食べ物を大切に入れて持ち運んだ小袋のこと。すなわち主は、ご自分の「いのちの袋」に、しっかりとあなたのいのちを守ってくださるお方ではないか。だから、あなたの手で復讐するのは愚かではないか、と。こんな具合に、主はダビデを諭すのでありました。こうしてダビデは、主のしもべの道を悟らされ、主のさばきに信頼することを学び、復讐という手段を思いとどまるのでありました。
善に対し善が返って来ない。むしろ、善に対して悪しか返って来ないこともしばしばでしょう。しかし、憤りに満たされそうになるその時こそ、主の御手にすべてを任せ、自らは手を上げない。この訓練をダビデのようにいただきましょう。主に信頼するしもべを、主はご自分の「いのちの袋」に守ってくださるお方だからです。
さて、主に委ね、主に信頼するしもべの道を学んだダビデに、再びサウルのいのちを奪うタイミングが訪れます。洞窟でのとき(24章)とは異なり、場面はサウル陣営の中。しかも側近がそば近くにおり、兵士も3,000人いる。しかしサウルのいのちを守った人物は、サウル陣営に一人もいません。みな眠りこけていたからです。寝床近くでアビシャイがサウルのいのちを打とうとすると「殺してはならない」と、唯一サウルのいのちを守るのはダビデただ一人。
そのダビデはサウルに言います。24節「きょう、私があなたのいのちをたいせつにしたように、主は私のいのちをたいせつにして、すべての苦しみから私を救い出してくださいます」と。主に対するダビデの信頼がいかに深くされているかがわかることばです。
「他の誰もが守ってくれない、絶体絶命の場面でも、主は私のいのちを守ってくださり、救ってくださる」と、主の慈しみをダビデは信じた。だからねたみにかられ、自分のいのちを狙うサウルをダビデは打たないのです。
さて、この主の慈しみは、サウルにも注がれていたと言えるでしょう。かつて主に油注がれたサウル王。彼は主の御声を聞くのをやめ、自らの道に進み、ねたみにかられ、ダビデのいのちを狙い続けてきた人物。しかし、そのサウルに、今一度主は、いのちを守る出来事をもって、ご自分の心をサウルに伝えられたとも言えるでしょう。誰よりもあなたを慈しむわたしを見上げ、帰ってきなさい、との主の招きが聞こえる26章でした。