昨日の箇所である8章から、また新たな動きが起きていました。それは、王制への願いです。
イスラエルの長老たちは、サムエルが歳をとり、その息子たちはサムエルの道を歩まず、適切な後継者がいないこと、そして他の国も王制をとっていることを理由に挙げて、イスラエルをさばく王様を立ててほしいと願ったのでした。
今日の箇所である9章から、この民の強い願いである一人の王が選ばれて行く過程が記されています。その初代の王様というのが、サウルでした。サウルは見た目もよく、さらには人格的にも問題なく思われる人物でした。サムエルは神様から告げられたとおりに、彼をイスラエルの王とし、民もみな大喜びします。
民の願いがかない、みんなこぞって大喜びしていますが、この喜びの席にしてはとても気になることばをもって、サムエルはイスラエル会衆の前での、王の選出を行なっています。
「ところで、あなたがたはきょう、すべてのわざわいと苦しみからあなたがたを救ってくださる、あなたがたの神を退けて、『いや、私たちの上に王を立ててください』と言った」(10章19節)
このことばは、話がどんどん進んで行くなかにあって、どうしても気になることばです。彼らイスラエルの長老たちは、自分たちよりも繁栄しているように見える他国の制度と同じように、自分たちにも王がほしいと願いました。しかし、彼らには今まで真実に導き続けてくださった、他に並ぶものなど決してない神様がいたのです。けれども、彼らは神様ご自身に助けを求め続けていくよりは、他国のように王を下さるようにと願っていた、ということがここでも明らかにされています。
すべてのわざわいと苦しみから救ってくださる神様ご自身を求めるよりも、自分の願いを神様に求める。彼らの願いである王制が一気に現実のものとなろうとしている今、この姿勢は問われるのです。
そしてこの姿は、神様に「これをください、あれをください。どうしてもあれがなければ、これがなければ」と求めがちな私たちの姿と重なるような気もします。
私たちも多くのことを願います。悪いことではありません。しかし、すべてのわざわいと苦しみから救ってくださる神様を信じて、その神様ご自身を求めているのでしょうか? それとも、ただ神様に、自分のことを求めているのでしょうか? 自らの祈りの姿勢、求めている姿勢をもう一度振り返らされる思いがします。