すでに5章から始まっていた神の箱にまつわる描写ですが、その一連の騒動も7章でひとまずの終息を迎えています。それから20年の月日が経ち、この頃イスラエルの全家は、主を慕い求めていました(7章2節)。
そのようなときに、預言者サムエルは神様からのことばを語ります(7章3節)。
この7章3節のことばからも、長い間イスラエルの人々が、偶像にも心を向け、仕えていたことがわかります。主を慕い求めていたことからして、イスラエルの神様をまったく忘れてしまっていたわけではなかったのでしょうが、しかしその心は主にのみ定まっているわけではありませんでした。
彼らは、劣勢続きの状況に、「おかしい?なぜだろう?」と違和感を覚えていたのでしょう。しかしここに至って、その状況は彼らの罪によることが、はっきり知らされたのです。
イスラエル人は、このサムエルのことばを聞いて、実際に彼らのうちからバアルやアシュタロテを取り除き、主にのみ仕えるようになりました。自分たちの罪を認め、断食をし、悔い改めたのです。
そのときでした。彼らはペリシテ人がイスラエルに攻め上ってきたことを耳にします。これを聞いたイスラエル人たちは、サムエルに、主に叫び続けていてほしいと願い出ます。これは彼らにとって、大きな変化でした。以前は、神の箱を持ってきたことによって満足し、勝利をつかめると思っていたイスラエル。しかし今は、形式的にではなく、本当に神様の力により頼まなければ、主に叫び続けなければ勝利はないことを謙虚に認めています。サムエルは、焼き尽くす全焼のいけにえをささげ、主に叫びました。そして、主は答えてくださったのです(7章9節)。
この一連のことを思い巡らしましょう。かつて彼らは、神様に対して謙虚に求めることをせず、神の箱をどこに置くかということに関心を払っていました。神の箱を持ってくることによって、彼らの感情は鼓舞されましたが、その心は主に定まってはいませんでした。しかし、神の箱騒動があり、20年間にもわたるどうにもうまくいかない時期があり、その期間をとおして彼らは主を慕い求めるようになりました。そのとき、神様はサムエルをとおして彼らの問題点を指摘してくださり、イスラエル人はそれを受けとめ、罪を認め、他の神々を取り除き、主にのみ仕えました。そして、神様の力を謙虚に求めたときに、神様の力は彼らのうえにあらわれたのです。
もちろん、形式はどうでもよいと言っているわけではありません。ただ、大切なのは形式的なことではないのです。
神の民がまず、その心を神様にもう一度向け直していったように、今日一日のうちに私たちがなす一つ一つのことが、神様に心を向け、神様にのみ仕えるゆえの一つ一つの行動でありますように。