今日からサムエル記に入ります。サムエル記には、傑出した3人の登場人物、サムエル、サウル、ダビデが出てきます。そのうちの一人である預言者サムエルの誕生は、一人の女性、ハンナが苦しみのうちに心を痛めつつ祈ったところから始まります。
ハンナにはハンナを愛してくれる夫、エルカナがいましたが、子どもは与えられていませんでした。一方、エルカナのもう一人の妻であるペニンナには子どもが与えられていました。しかし、ペニンナは、夫が自分よりもハンナのことを愛していることに気づいていました。それゆえでしょう、ペニンナはハンナを憎み、ハンナはいらだって食事をとることもできず、またその心は痛んでいました。
そんな苦しみのなか、ハンナは必死に、激しく泣いて祈りました(1章10節)。彼女が苦しみのなかで、誰よりも神様のもとに近づき、求めていった姿勢にはやはり教えられます。しかし、それと同時に目を見張ることには、彼女が祈った後、食事をとることができるようになり、その顔ももはや以前のようではなかった、ということです(1章18節)。このとき、彼女の願いである男の子が、お腹の中に宿っているわけではありませんでした。しかしハンナは、問題を神様のもとに持っていったゆえに、回復されていたのです。
しかも、ハンナの信仰はこれだけでは終わりません。彼女は事実子どもが与えられた後、神様に立てていた請願を果たします。つまり、ようやく与えられた男の子、サムエルを神様に一生涯お渡ししたのです。
ハンナにとってサムエルは、ずっとずっと願ってきて、ようやく手に入れた彼女の願いでした。普通に考えれば、最も手放したくないものの一つであったに違いありません。しかし、ハンナはペニンナから受けていた苦しみを神様にあって乗り越えたとき、「これさえあれば私は幸せになれる」という思いからは離れていました。彼女は、神様から与えられたものを我がものとして握り締めることなく、神様にお渡しすることができたのです。
しかも、いやいやながらではありません。賛美しながら、神様にお渡ししているのです(2章1〜11節)。神様は、ハンナのことをこの後も祝福してくださいました(2章21節)。
このハンナの信仰の姿を見るときに、はっとさせられます。自分の子どもはもちろんのことですが、私たちは神様から多くの祝福をいただいています。しかし、私たちは普段の生活でどれだけそれらのものを神様からのものとして、自分の手で握らずに歩んでいるでしょうか。
私たちは「もし〜〜だったら捧げます。」という請願を立てていることは少ないかもしれません。しかし本来、すべての祝福は神様からのものであったのではないのか?と思い至るのです。ハンナのように、神様のもとに問題を持っていくことで平安を見出し、神様にお返しするときにも賛美をささげる、そのような神様に対する信頼が私たちにも、与えられますように。