「さばきつかさが治めていたころ」(1章1節)とありますから、時代は士師記と同時代であったことがわかります。昨日まで読んできたあの混沌とした時代のなかにも、このルツ記に描かれているような、信仰に歩んだ人々の記録があることは、現代に生きる私たちにとっても大きな慰めです。
とは言え、ルツ記はその最初から、ナオミの夫エリメレクの死、そして2人の息子であるマフロンとキルヨンの死という、大きな痛み、悲しみの記述をもって幕を開けます。
しかし、このなかでやはり注目したいのは、この悲しみのなかにあっても、信仰をもって誠実に歩んだルツの姿と、その誠実な人に与えられた祝福です。
ルツという女性はもともとモアブの女性であり、ナオミとともにベツレヘムに向かうということは、ルツにとって見知らぬ異国の地に移り住むことを意味していました。しかし、ルツは、信仰においても、「あなたの神は私の神」と、イスラエルの神様を信じて歩んでいく決心をし、亡くした夫の母であるナオミとともにベツレヘムへ帰る決心をしたのです。
それだけではありません。彼女はベツレヘムの地に着くと、「私はこんなに苦しんでいるのだから・・・」とふさぎこみ続けることなく、義母と自分の生活のために、自ら進んで働きに出かけたのでした。
この、誰の目から見ても苦しみのなかにありながら、「こんな苦しみを与える神など・・・」とつぶやくことをせず、むしろ「あなたの神は私の神」と信仰を告白し、与えられた場所で誠実に生きていこうとするルツ。このルツに神様は祝福を用意してくださっていたのです! それが、ボアズの畑に、そしてボアズ自身との出会いに導かれるということでした。
これは、ナオミやルツが、自ら進んで策略を張り巡らしたものではありません。聖書は、ボアズの畑に行ったこと自体「はからずも」(新共同訳では「たまたま」)であった、と語っています(2章3節)。
「はからずも」だったのです。ルツはただ、信じて誠実に歩んでいただけでした。この畑に行けば、いろいろうまいこと話が進むかもしれない、と策略を張り巡らしていたのではありません。ただただ、信じて、今できることを誠実にしていたのです。そこに、神様が、人の策略ではない、人にとっては「はからずも」な「神様の計画」を、この誠実な人のうえになしてくださっていたのです。
策略ばかりを張り巡らす必要はありません。神様を信じ誠実に歩むなかに、人にとっては「はからずも」な「神様の計画」へと導かれていくこともあるでしょう。この「はからずも」な「神様の計画」という恵みを発見する者でありたいものです。