第16日曜 士師記20章〜21章



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 19章におけるギブアでの暴行事件は、大きな波紋を呼ぶこととなりました。
 「イスラエル人がエジプトの地から上って来た日から今日まで、こんなことは起こったこともなければ、見たこともない」(19章30節)と言われるほどの残虐で不道徳な行為に対して、ベニヤミン族以外の部族は「イスラエルから悪を除き去ろう」(20章13節)とベニヤミン族に迫りました。しかし、ベニヤミン族は「自分たちの同族イスラエル人の言うことに聞き従おうとしなかった」(20章13節)うえに、「イスラエル人との戦いに出て行」くことになってしまいました(20章14節)。
 ここに、「ベニヤミン族以外のイスラエル人」対「ベニヤミン族&ギブアの住民」という、痛むべき戦いが勃発してしまいます。
 しかし、問題はそれだけではありませんでした。この戦いは、3回繰り広げられた結果、最終的にはイスラエル側の大勝利となりましたが、その後、新たな問題に思い至ったのです。
 それは、イスラエル人たちが「私たちはだれも、娘をベニヤミンにとつがせない」と言って誓っていたことでした(21章1節)。この戦いでベニヤミン族のうちから女性が根絶やしにされた今(21章16節)、イスラエル人の他の部族からも誰もとつがせないとなれば、当然「一つの部族が欠ける」(21章3節)ようになることが予測されるのです。
 そこで彼らは自分たちの知恵により、2つの解決策を搾り出しました。
 一つは、ヤベシュ・ギルアデの住民のうちから若い処女をベニヤミン族に与えるということ。そしてもう一つは、シロの娘たちを略奪する、ということでした。そうして、ベニヤミン族の残りの者、600人に対し600人の女性を与え、それぞれ自分の相続地に帰ったことが記されています。

 ざっと20・21章をまとめただけでも、いかにこの時代が混沌とした時代であったかが分かります。まさに、「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」(21章25節)状態だったのです。
 そして、このみことばを読むときに、私たちもはっとさせられるのです。
 「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」
 王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた結果が、この残虐な事件を生み、それを受けての様々な問題を生じさせていたのだとすれば、私たちはどうなのでしょうか? 私たちの心を正しく治めてくれる王様は、今いるでしょうか? 自分の判断に任せ、自分の正しいと思うことだけをしてしまってはいませんか? この士師記の20・21章は他人事ではありません。王の王である主イエス様に私たちの心を治めていただかなければ。


【信仰告白】

[2] 使徒信条