4人の士師、オテニエル、エフデ、シャムガル、(デボラと)バラクの登場です。
残念なことに、2章後半にまとめられていたことが、現実となっていきます。ヨシュア記では、神ご自身が戦ってくださるから、追い払わなければならない、と繰り返し命じられていたのに、イスラエル人はそうしなかった。イスラエル人は、カナン人たちと結婚し、交流するようになり、それだけでなくカナン人の神々バアルやアシェラとも交流するようになります。このことは民の不従順でありましたが、聖書はそれさえも神様の御手の中にあることとして、3章1〜4節に記しています。
ペリシテ人をはじめカナンの領主たちは、「主が残しておかれた」(1節)のです。それは、戦いを教えるためであり(2節)、イスラエルが聞き従うかどうか、これらの者によってイスラエルを試み、そして知るためでした(4節)。
これらの民の失敗も、神にとっては不測の事態ではなく、それを用いてイスラエルの民を、またこの書を読む私たちを教え導くためでした。
神は、主の目の前に悪を行う者に怒りを燃やされ、敵の手による支配に引き渡されます(3章7〜8・12〜14節、4章1〜3節)。しかし、敵の手によって苦しめられるイスラエルは、そのままに放置されるわけではありません。
「イスラエル人が主に叫び求めたとき」(3章9・15節、4章3節)、主は彼らのために、彼らを救う救助者を起こしてくださいました。それは、神がともにおられることを知らせるであり、また神が力をもって戦ってくださることを知らせるためです。4章では女性が用いられていることからも、人間の力強さではなく、神の力に信頼する信仰による戦いであることが教えられています。
さらに、これらは聖書にしてみれば数行の出来事ですが、不従順の罪に対する取り扱いには長い期間があることを見逃してはなりません。頑ななイスラエルの民が、自分たちの罪に気づき、悔い改めて主に叫ぶまで、あるいは悔い改めの期間が満ちて士師が送られるまで、オテニエルの前には8年間、エフデの前には18年間、バラクの前には20年間、イスラエルは敵に圧迫され惨めさを味わっています。
現在の私たちは、何でも早く解決されることばかり求めて、主を待ち望むことを忘れているのではないでしょうか。祈りが聞かれないからといって、神の取り扱いの期間があることを無視して、あまりにも早くあきらめていないでしょうか。あなたの今週の歩みはいかがだったでしょうか。
「そればかりでなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ローマ5章3〜5節)