ヨシュア記は、神の約束が実現していった記録であり、失敗もありましたが、大枠としては成功の歩みで、信仰による勝利の歩みでした。それに比べて士師記は、神を見失い、外からの患難、内からの患難、誘惑に負け、挫折の経験の記録です。異教の文化のなかにある日本の教会は、この書の記録から多くのことを学べると思います。
士師とは、苦しみのなかでイスラエル人が主に叫び求めたとき、主によって遣わされた、さばきつかさのことです。これから12人の士師たちが登場して来くるので楽しみに読み進めてください。
士師記は、約束の地カナンを占領していく場面(ヨシュア記の記録の繰り返し)から始まります。イスラエルは、主の御心を求め、相続地を攻め取りながらも、追い払わないカナン人を残し(1章19・21・25・28〜35節)、占領しない地を残してしまいます(1章27節)。この不従順のため、主の使いによってさばきが宣告されます。
「あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。それゆえわたしは言う。『わたしはあなたがたの前から彼らを追い出さない。彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとってわなとなる』」(2章2〜3節)
この言葉どおり、主がイスラエルのためにされたわざについて知らない世代になると、彼らは他の神々、バアルとアシュタロテに仕えるようになっていきます。
そのために、イスラエルは長く苦しむことになります。民の不従順が神を怒らせ(2章12節)、主の手によってわざわいがもたらされ、民は懲らしめられ非常に苦しみます(2章13〜15節)。
「そのとき、主はさばきつかさを起こして、彼らを略奪する者の手から救われた」(2章16節)
「しかし、さばきつかさが死ぬと、彼らはいつも逆戻りして、先祖たちよりも、いっそう堕落して、ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝んだ。彼らはその行いや、頑迷な生き方を捨てなかった」(2章19節)
どうして、こんなに愚かなのだろうか、と不思議に思います。しかし、これが罪に堕落した人間の姿なのであり、私たち自身の姿でもあるのです。
主の言葉に対して、「これくらい小さなことではないか」と罪を取り除かないなら、その罪のために、主の祝福に浴することから自分を遠ざけてしまうことになるのです。罪ある者は恐れから主を避けるので、他の偶像に安息を求めます。それは滅びへ向かう道です。
ここで神が罪人を懲らしめるのは、罪深い人を滅びるままにせず、立ち返らせるためなのです。聖書の中で、神がイスラエルを懲らしめるところに、主の恵みがあることを読み取ってください。そうすれば、この世界における忍耐と希望を得ることができます。全知全能の神は、人には計り知れない御旨をもって、あなたを最善へと導いておられます。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8章28節)