ヨシュアが死を前にして、最後に大切なことを語る場面です。23章で繰り返されている言葉に注目しましょう。――戦ったのは、主である。主が敵を追い払われる――という内容が、3節、5節、9節、10節で繰り返されています。この主なる神がともにおられるのだから、恐れずに主の約束を信じて行きなさい、というのがヨシュア記のメインテーマです。
ヨシュア記は1章5〜9節で告げられた主の約束が、ひとつもたがわずそのとおりになったことの記録です。神の約束はそのとおりに実現したから、これからも主なる神に応答し、主があなたがたに告げたように、約束の地を受け継ぎなさい。カナンの住民を恐れるのではなく、主の言葉に従いなさい。という勧めで締めくくられています。
神の御業を思い起こしつつ、民には具体的な応答が求められています。主が告げたように約束の地を占領しなさい(5節)、律法に記されていることを断固として守り行いなさい(6節)、あなたがたの神、主にすがれ(8節)、十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい(11節)。
クリスチャンは、神がともにおられることを信じます。その信仰は、罪が赦されているという安心だけでなく、神のことばに従って積極的に生きる力をもたらすものです。神は約束を実現される力のあるお方だからです。この神がともにいてくださるなら、御言葉に従って生きることを後回しにしたり、結果を恐れたりすることはありえません。
「あなたがたは、心を尽くし、精神を尽くして知らなければならない。あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束したすべての良いことが一つもたがわなかったことを」(23章14節)
ヨシュアは、もし主に従わず、他の神々を拝むなら、まったく逆のことが起こるという呪いも宣言します。このような厳しい言葉は、心に留めるより読み飛ばしたくなるものでしょう。けれども、これは脅しの言葉ではありません。不従順の報いは滅びです。しかし、神は不敬虔な者を選び、守り導き、祝福を与えてくださったのです。神に不従順になり、その恵みを無駄にするなら、自らに滅びを招く、そんなことがあってはならないという愛の警告です。
ヨシュアは、24章でも神の恵みを思い返します。2節で、アブラハムの父テラは昔、ほかの神々に仕えていたことに触れています。神に従順だったから選ばれたのではない。相応しくない者が、一方的に選ばれ、導かれてきたのです。それだから!「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい」(24章14節)と命じているのです。
私たちも、人生を思い返すとき、自分が不従順な者であるにもかかわらず、神がどれほどの恵みと憐れみを注いでくださったか、言い表したいものです。
今はまだ手に入っておらず、おぼろげにしか見えないかもしれませんが、主の約束は、一つもたがわずみな実現した、という信仰に生きることを、心からお勧めします。