ユダ族とヨセフ族(マナセとエフライム)に相続地の割り当てが終わったところで、残りの相続地の割り当てについての記録が18章と19章です。まだ、相続地が割り当てられていないのは7部族。彼らはカナンの地に攻め込んでいながら、祝福の地を自分たちのものとすることを躊躇していました。先のユダ族のカレブとヨセフ族のツェロフハデの娘たちが、主の約束を覚えて、熱心に神の祝福を受ける特権を主張した姿に比べ、何と消極的な歩みでしょう。
ヨシュアは彼らに「あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで延ばしているのか」(18章3節)と言って、残りの地に偵察隊を送り出します。主の約束の地を調査した情報が書き記されるのは人の業です。相手の大きさに躊躇してはならない、これを与えると言われた神の約束の偉大さを思え。だから分割は、人の計算によらず、くじを引くことで、すべてを主に委ねて行われました。
彼らは、くじによって示された答えを、神の御心として厳粛に受けとめたことでしょう。注目しておきたいのは、19章の最初に出てくるシメオン族への割り当てです。
「彼らの相続地は、ユダ族の相続地の中にあった」(19章1節)
この理由は、創世記34章のディナ事件で、シメオンがシェケムの人々を殺戮した残虐行為にあったと思われます。聖書の神は、憐れみと恵みに富み、罪を赦してくださるお方ですが、「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります」(ローマ2章6節)。
しかし聖書は、すべてが因果応報であると教えているわけではありません。因果応報では、すべては滅ぶことになります。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ6章23節)
罪の報いは死。しかし神は、信じる者に賜物(恵み)として永遠のいのちを与えられる。悔い改める者には慰めを与え、救いに導いてくださるというのが、聖書全体をとおしてのイエス・キリストの福音です。だから、シメオン族も滅ぼされることなく、ユダの相続地のなかにあって悔い改めつつ生きる道が備えられたのです。
悔い改めて生きる者のため、「あやまって、知らずに人を殺した殺人者が、そこに逃げ込むことのできるようにしなさい。その町々は、あなたがたが血の復讐をする者からのがれる場所となる」(20章3節)と、神は逃れの町を定められました。会衆の前に立って公のさばきを受ける前に、復讐によって殺されないように。神は、人が失敗することと、怒りに支配されて復讐に急いでしまうことをご存知なので、事前に逃れる道を備えられたのです。
私たちは、この神の御前に歩んでいます。主は、神の約束に躊躇する者に、御声をかけてくださいます。人殺しのような失敗をしてしまう者にも、逃れの町を備えておられます。人の失敗に対する怒りを治めきれない者が、先走ってしまうことのないように。
自分のことでも他人のことでも、失敗を恐れず、失敗をさばかず、そして相手がどんなに大きくても、確かな神の約束を信じ誠実に歩みましょう。