くじで土地が割り当てられていくなか、カレブと彼の属するユダ族の記録が目立ちます。カレブの求めは、私的な欲にも見えますが、それは神の約束に基づくものでした。
「わたしのしもべカレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる」(民数14章24節)
カレブが主の前に持ち出したのは、わがままではなく信仰です。彼を突き動かしていたのは、思い上がりと言うよりはむしろ神への絶対的信頼でした。巨人アナクたちが住んでいようと、恐れずにヘブロンを選んだのも彼の信仰のあらわれです。カレブの信仰は、あの偵察に行った時と何ら変わっていなかったのです。
ヘブロンの地は、創世記13章でアブラハムが甥ロトに選択権をゆずり、目の前に広がる肥沃な土地を放棄した後の残りの地域でした。結果を神に委ねたアブラハムに、神はこのヘブロンで「子孫を地のちりのようにならせる。・・・立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから」(創世13章16〜17節)と言われました。主の約束を信じて進みゆく場所としては、これ以上ふさわしい場所は他にありません。
しかし、あくまでも結論を出すのは、人間ではなく主です。
「ヨシュアは、主の命令で、エフネの子カレブに、・・・ヘブロンを割り当て地として与えた」(15章13節)とあります。神の約束を土台にした願いであっても、事を実現するのは「主の命令」です。カレブの属するユダ族の占有した地は広大です(ぜひ、聖書地図で確認してみてください)。15章後半に、その町の名が挙げ連ねられています。
次にヨセフ族の割り当て地が16章と17章に記録されています。ここでも目を引くのは、私的と思われる訴えです(17章4節)。これは、民数記27章1〜7節の記録に関連しています。ツェロフハデの娘たちには男の子がなく、そのために相続地を与えられないのかと訴え、それに対し主はモーセに告げて仰せられました。彼女たちの言い分は正しい、と。そうして、家族に男の子がいない場合でも、相続地が他人の手に渡って失われるということのない制度ができました。ツェロフハデの娘たちは、その時の主の約束をもとに訴え出たのです。
このように、訴えを申告すること自体は、それが正しい信仰に基づいた求めであれば不遜なことではありません。クリスチャンは、時に謙遜をはき違えて、この世のことをおろそかにしてしまうことがないでしょうか。主が与えると言われた祝福をしっかり受け取るために、主の約束を忘れず、それに基づいて行動しましょう。
多くの割り当て地を受けながらも、ヨセフ族はそれを不十分と言います。それに対し、ヨシュアは大きな力を持っているのだから、自分で切り開くように、と言われます(17章15〜18節)。能力を持った者には、それを正しく行使する責務があるのです。神の祝福を取りこぼすことのないように、御言葉に約束されていることなら信仰をもって遠慮せず、今週もそれぞれの務めに励んでいきましょう。