モーセの死後、不信仰な道に向かい歩んでいくイスラエルに対し、主はモーセを通して一つの歌を授けました。それは、この歌が彼らの間にあって主をあかしし、神から離れたイスラエルの民がもう一度主に立ち返るためで、主がイスラエルにあらかじめ用意した救いの道でした。
モーセは主から与えられたこの歌を、すべての人の前で歌いました。彼はまず天と地に呼びかけ、自分の語る言葉と教えが若草や青草の上に落ちる雨や露のように浸透するように、そして、主の御名を告げ知らせるのだからと、栄光を主に帰すように命じました。
真実で正しい主に反し、受けた数々の恩を忘れ、罪を犯すイスラエルに、主から受けた恵みをもう一度思い起こすように、数々の恵みが歌われます。主が彼らを造られ堅く建て上げられたこと。主が彼らに相続地を与え、主が彼らを荒野で見つけ、抱き、世話し、守られ、主が彼らを最良のもので養ってこられたことを。にもかかわらず、肥え太ったエシュルン(イスラエルの愛称:正しい者の意)は、神を捨て、救いの岩を軽んじ、異なる神々、神でない悪霊、彼らの知らなかった神々、新しい神々にいけにえをささげ、主のねたみを引き起こし、主の怒りを燃えさせ、彼らは主から退けられ、その報いを受ける。神の怒りによってすべてが焼き尽くされ、数々の災いが彼らに送られ、外には剣、内には恐れがすべての者を襲います。しかしここで主は、イスラエルが懲らしめられることで、敵(主を神としない者、異邦人、異教徒たち)が神をののしり誤解することを気づかい、イスラエルを粉々に消し去ることを思いとどまった、と歌われます。
イスラエルはイスラエルでその不信仰のゆえに神の前にさばきを受け、敵は敵でその愚かさ、思慮の欠けた国民であるゆえに神の復讐とさばきを受けることになるのです。そして、イスラエルの力が去り、奴隷も、自由の者もいなくなったとき、主はイスラエルに語りかけられます。彼らを立たせ、助け、盾となるのはわたしだと。わたしのほかに神はいないと。神がその仇に復讐し、神を憎む者に報いを与え、ご自分の民を贖われる。
モーセはこの歌をすべての民に聞こえるように唱え、この歌は命のことばであり、このことばを心に納め、子どもたちに命じ、この教えのすべてを守り行うように命じました。
モーセはこの歌を民に語り、最後の役割である、命に至る教えをイスラエルのすべての人々に語り終えた後、ネボ山に登り、主のお与えになるカナンの地を見るよう命じられ、改めて約束の地に入れずその山で死ぬことが告げられました。
この32章では、これから罪を犯し神から離れていくイスラエルに向けられた、神の愛と憐れみを知ることができます。同時に、主の働き人であるモーセの与えられた役割についても考えさせられます。
神の愛は計り知れません。いくら恵みを与えてもそれを忘れて罪を犯すイスラエルに、「何をしても無駄」と諦めて、恵みを注ぐのをやめるのではなく、むしろ罪を犯した後の彼らが回復するための道をあらかじめ用意される。なんという愛でしょうか。裏切られることがわかっていて、イスラエルを愛し恵みを与えたのです。それだけではなく、裏切られた後の和解の道まで用意して。
これが私たちの神の愛です。そして、これが私たちの信頼する神の御姿です。私たちの弱さを知っていて、私たちのために救いの道を用意されている。私たちが神様から離れたとき、そして私たちがもう一度神の恵みを思い起こすとき、そこに救いがあります。自分の罪を悔い改め、神が神であることをもう一度告白するとき、神は私たちを拒まれません。いえ、むしろ、主のもとに立ち返るのを、私たちが罪を犯す前から願い、救いの道を用意し、待っていてくださっています。