第12木曜 申命記25章~27章



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 25章4節に「脱穀をしている牛にくつこを掛けてはならない」とあります。
 脱穀の作業というのは、なかなかの重労働です。重い石臼を引いてえんえんと回るわけですから疲れます。たとえ引く力の強い動物であっても同様です。喉が渇いたり、おなかがすくことでしょう。脱穀でこぼれた麦を食べたくなるのも分かります。しかし当時の社会では、そのこぼれた麦でさえ牛に与えず、作業中に牛が麦を食べないようにと、その口にくつわをかけ、こぼれた麦を食べることができないようにして牛を酷使する人たちが、少なからずいました。
 この箇所はそうした背景から、たとえ家畜であったとしても、そういった冷酷な扱い方をしてはならない。たとえ人格を持たない牛であっても、その牛が一生懸命、汗だくで働いてくれるからこそ自分たちは助けられているではないか。だからせめて落ちた小麦ぐらいは牛に食べさせてあげようじゃないか。くつわをといてあげなさい。そういった規定がここで述べられているのです。そして、家畜でさえこのように配慮しているのだから、ましてや当時の奴隷あるいは召使いには、さらなる配慮が主人に求められました。

 2008年にアメリカで起こった世界大恐慌。日本経済もこの影響をもろに受け、深刻な打撃を受けました。そして一番の犠牲になったのは、派遣労働者、あるいは日雇いの労働者でしょう。多くの人たちが泊まる家もなく年を越したことをニュースで聞いています。
 使えるだけ使って、いらなくなったら後は捨てる。こうした、人をまるで物としか見ていない、こうした歪んだ考えがこの社会の構造の根底に横たわっているように思います。まさに、「脱穀している牛にくつこをかける」ような扱いで人を扱い、物として扱い、そしていらなくなったら、倒れたら、そのまま放り出す。そんな冷たい社会が、今のこの国の現実ではないでしょうか。
 聖書は、古い昔の書で、なんの得るところもない。そんな書物と思ったら大間違いです。そうではなく、逆に、こうした冷たい時代だからこそ、私たちは聖書の語る声に耳を傾けるのです。聖書の説く友愛の精神に学ぶ必要があります。


【信仰告白】

[2] 使徒信条