まず16章3節に目を留めましょう。
「種を入れないパン、悩みのパンを食べなければならない」
今でもユダヤ人は過越しの祭りを祝います。イースト菌(ハメツ)の入らないマッツァーというパンを食し、エジプトの苦役から解放されたことを覚えます。
キリストは、十字架に向かう直前の晩餐で、このマッツァーを裂いて弟子たちにこう言いました。「取りなさい。これはわたしのからだです」(マルコ14章22節) これから向かう十字架を念頭におき、自らを種なしパンと重ね合わせ、罪なき者として贖いを完成し、全人類に自らの命を分け与えることを暗示なさいました。
すでにキリストはこの贖いを完了しておられます。あとはこのパンを食するだけです。今日、この招きに信仰をもって応答する方はおられますでしょうか。
次に17章に目を留めてみましょう。
16節と17節には、王としてたてられた者が警戒しなくてはならない点が3つあげられています。馬(権力)と、多くの妻(女性)と、金銀(お金)です。
これを読むときにソロモンのことが思い浮かびます。彼は非常に卓越した指導力と知恵をもって国を治め、成功をおさめた人物でした。しかし上記の3点において いずれも失敗をし、国に霊的腐敗をもたらします。もし彼がこの申命記の教えを手元に置き、繰り返し読み続けたなら、もっと結果は違ったかもしれません。
私たちはそうであってはなりません。主の言葉を常に手元に置き、これに留まり続けるお互いでありたいと思います。
最後に18章の15節に目を留めてみましょう。
「私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない」
預言者の原型はモーセで、その究極はキリストだと言われます(参照:使徒3章22節、ヘブル1章1〜2節)。預言者というのは、ときに厳しいことを語ります。自分が好むと好まざるとに関わらず、神様の言葉を伝えるためにです。
この時代、この世俗のただなかに生きる私たちに、現臨のキリストは真の預言者として今日も語ってくださいます。その御声に真剣に向き合う覚悟が、私たちにあるでしょうか。