モーセは、出エジプトの出来事を体験し、荒野での38年を経て生き残り、ダタンとアビラムの出来事(民数16章)を目撃してきたヨシュアの世代に向けて、「あなたがたは神の力と、罪に対する徹底的なさばきをその目で見てきたのだから、神を恐れ、神のすべての命令を守りなさい」と言います。
人生は、神のことばが真実であることを目撃する旅路です。
エジプトは、ほとんど雨が降らないので、自分たちの足で水車を回して水を野菜畑に送らなければなりません。しかしカナンは「主が、絶えずその上に目を留めておられる地」(12節)で、神が雨を降らせ、神の恵みによって収穫をもたらすことが保証されています。「先の雨」は10月から11月に降る秋の雨で、この時期に農耕を開始し、種を蒔きます。「後の雨」は3月から4月に降る春の雨で、この時期に家畜の餌となる草が茂り、作物は豊かに実を結びます。
ただし、食べて満ち足りるとき、神を忘れて偶像礼拝に走らないよう、みことばをしっかり心に刻み、肌身離さず握りしめるように徹底的に次世代に伝えます。また子孫にも教え、生活の場所でみことばに生きるよう命じています(18〜20節)。
イスラエルが新しい地に入って、まずなすべきことは「礼拝」です。そのために場所の確保が重要です。そこで最初に、徹底的な偶像の排除が命じられています。異教の民は、好き勝手な場所で偶像礼拝をしていましたが、「主に対して、このようにしてはならない」(4節)、「これらの異邦の民は、どのように神々に仕えたのだろう。私もそうしてみよう」(30節)と言わないように命じています。
40年間、会見の天幕は常に民とともに移動し、宿営の中心にありました。しかし、カナンに定住すれば、民は広い地域に点在して住むことになります。するとある人はその生活に安住して「礼拝に行くのはやめようか」という思いを抱くかもしれません。ですから、カナンに入ってからは、自分の意思をもって礼拝場に向かうことが問われます。真の神に対する礼拝の姿勢がいい加減になるところから、偶像礼拝は始まります。だからこそ、主が定める場所に、自ら喜びとともにささげものを携えてゆき、礼拝をするよう求められています。
「家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で祝宴を張り、・・・喜び楽しみなさい」(7節)と言われます。礼拝の中心は「喜び」です。家族とともに主の御前に進み出て、喜びを分かち合うことが求められています。カナン定住以降、イスラエルは分散し、家族単位の生活になります。偶像が家庭に侵入するのを防ぐには、家族でともに神を礼拝することです。
偶像社会に生きる私たちは、何をするにも、まず神を礼拝し、常に神との関係を正す必要があります。神との関係が崩れるとすぐに、この世の価値観に流されてしまいます。私たちは礼拝をとおして、神の所有の民であることを確認し、神の価値観に立って、偶像社会に立ち向かっていけるのです。