イスラエルの力でアナク人を倒し、カナンを占領することは不可能にもかかわらず、主が彼らの前を進み、この地を与えると言われます。それは、イスラエルが神の御前に正しいからではなく、ただ神が「義」であり「約束を必ず守られる」ゆえに成し遂げられるのです。イスラエルはむしろ「うなじのこわい民である」(6・7節)ことを忘れてはならないのです。「己を知れ」ということです。
モーセは、イスラエルが40年の間に犯した数々の罪の象徴として、ホレブで子牛の偶像を作った事件を取り上げます(12節)。神はこのときイスラエルを滅ぼし、モーセを祝福すると約束されましたが、モーセは自分の繁栄よりも民の救いを願い、神にとりなしました(25〜29節)。モーセは民の前で石板を打ち砕き、主の前にひれ伏したので、主はイスラエルをあわれみ、再び十戒を刻んだ2枚の石板を与えました。イスラエルの罪ゆえに破壊された恵みの契約を、あわれみ深い神はご自身の手で回復させてくださったのです。
モーセは民に、神について教え、全身全霊をもって神を愛し、16節では「心の包皮を切り捨てなさい」と、見せかけの割礼ではなく、心から主に献身するように招きます。
神は、恐れかしこむべきお方ですが、恐怖の神ではありません。神は愛に満ちた方で、外見や能力によって人を偏って差別することがありません。「わいろ」は当時日常的に行われていましたが、神は自分の利益や損得勘定で物事を判断されず、愛・義・聖に基づいて決断し、行動されます。
「在留異国人」は、異邦人で真の神を信じるようになった人々で、「みなしご」や「やもめ」と同じく社会的に弱い立場にありました。神は、ご自身が彼らを愛するように、イスラエルも彼らを愛するようにと命じます。イスラエルもかつて在留異国人の虐げを経験しているのだから、と言われます。
これは、これからカナンに入るイスラエルへの警告です。人は豊かになると、自分のことだけを考え、愛がなくなります。自分が一体何者であるかを忘れて傲慢になり、人を外見や能力で偏って見たり、わいろなど自分の利益を要求するようになり、貧しい者や社会的地位の低い者に目が行き届かなくなります。しかし、神はそのようなお方ではありませんし、また私たちにもそうあってはならない、と命じています。
神は、うなじのこわい私たちをもあわれみ、キリストによって罪の奴隷から救い出され、神の所有の民としてくださったのです。それゆえ私たちは、不平不満をつぶやくよりも、まず神に感謝し、主を賛美しましょう。また、自分の繁栄ばかり求めるのではなく、モーセのように人のためにとりなす祈りをささげる者でありたいと思います。今日、あなたが執りなすべき人は誰ですか。