バラムはモアブの地のバラクのところに行った。バラクはイスラエルの民をのろうよう3度もバラムに願ったが、バラムは3度ともイスラエルの民の祝福を宣言した。それは、イスラエルの民を祝福することが神の御心であったからだ(24章1節)。神の祝福と御守りを、サタンも、人間のどんな業も、覆すことはできない(23章20節)。イスラエルの民は、バラクがのろおうとしていたことにまったく気づいていなかったであろう。しかし、神は、民の気づかないところで、祝福をもって民を支えておられたのである。
しかし、こうした神の祝福に反し、イスラエルの民はモアブの地で、モアブの女性たちとみだらなことを行ない、偶像礼拝の大きな罪を犯した。神は彼らにさばきを与えられた(25章3〜9節)。ただし、神にすがった者は生きた(申命4章3〜4節)。
キリストの十字架の贖いによって救いにあずかり、真の祝福のなかを歩む者とされた。しかし、絶えず誘惑がある。絶えず罪の招きがある(25章2節)。でも、神に従い、神の祝福のなかを歩んでいきたい。弱さを覚えるからこそ、私たちの近くにいてくださる神にすがっていきたい。