「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる」(21章8節)
20章は、イスラエルにとって悲しむべき出来事の幾つかが記されています。
ツィンの荒野のカデシュまでたどり着いたイスラエルは、ここでまた、モーセに対して旅の不平・不満をぶつけました。「ここは、穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない」 植物の名前の羅列は、緊迫感を与えます。実際そうであったのでしょう。飲み水さえない。荒野で飲み水がない、ということの苦しさを再度考えさせられます。老人や子どもなど、弱者にとって、水もない、というのは、そのまま死ぬことを意味したでしょう。
こうして、イスラエルに迫られたモーセは、主に願います。しかし、彼は、ここで、主の「岩に命じなさい」という御言葉のとおりには行わず、岩を杖で2度叩いてしまいます。慈愛の主は、それでも、水を岩から出してくださいました。だが、モーセは、この故に、カナンへ入ることなく、死ぬことになってしまいます。「メリバの水」と呼ばれるこの事件をはさんで、20章は、ミリヤム、アロンの死を伝えます。アロンの後継者は、主によってその子エルアザルと定められました。
カナン人アラデの王を聖絶したイスラエルでしたが、またも「パンもなく、水もない。このみじめな食物に飽き飽きした」と不平を並べ立てました。ついに、神は「燃える蛇」を送って、イスラエル人を悩ませます。多くの人が蛇に噛まれて死にました。駆除をしたのでしょうが、到底手に負えるものではなかったのでしょう、イスラエルは、モーセに罪の告白をして、「主に祈ってください」と頼みました。モーセが祈ると、主は、「青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる」と言われました。モーセは、主のご指示に従います。蛇に噛まれた人は、その青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きたのでした。
ヨハネ福音書3章14節では、主イエスが、ご自身をこの旗ざおの上に上げられた蛇になぞらえておられます。毒蛇に噛まれても、青銅の蛇を見るだけで、いやされる? そんなことは人間の常識では信じられません。おそらくイスラエルの人々のうちにも、「そんなことは」と思った人もいたでしょう。ですが、仰ぎ見た人は、生きたのです。これこそ、信仰の要諦、ではないでしょうか。人間の常識では考えられなくとも、神様の御言葉であるから、それはある、と信じるのです。自分の知識や経験を打ち捨てて、御言葉に従うのです。私たちは、ここまで、そうして来たのではなかったでしょうか。これからも、主の御言葉であるゆえに、それはある、と信じて、天路歴程の旅を続けましょう。