第9火曜 民数記11章〜13章



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる」(11章23節)

 11章では、マナという天与の食物に飽いてしまったイスラエルの民が不平をモーセにぶつける、という場面が出てきます。彼らの「エジプトの方がよかった」という実に単純なそして肉的な望みに対して、主はウズラを降らせてくださいました。
 12章では、民に続いて、大祭司であるアロンと女預言者であるミリヤムが、モーセに対して不平をぶつける、という場面になります。民からも、そしてもっとも信頼できるはずの兄弟からも、文句を言われるモーセが、彼自身の不平を主なる神に申し上げるのも、むべなるかな、と思わされます。
 13章では、ついに民とともにカナンのほとりに到達したモーセは、12人の斥候をカナンの地に派遣します。そのなかに、ヨシュアとカレブが含まれていたのでした。
 こうして、11章から13章まででは、キブロテ・ハタアワ(欲望の墓)からパランの荒野までの旅程と出来事が記されました。

 イスラエルの民のなかに混じりこんできた者、おそらくは異邦人たち、が真っ先に「マナだけの食事には飽き飽きした。ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚や野菜を食べていたのに」と不平をもらすと、たちまちのうちに、不平はイスラエルの民の間に広がりました。地上にある私たちは、体のもとめる欲にきわめて寛大です。特に食欲については、当然の権利のなかの権利として、いつも正当化されています。「少しはガマンしなさい」などという意見は、「人権無視」という伝家の宝刀によって、あっという間に切り倒されてしまうでしょう。イスラエルの選民の間でも、それは同様のことでした。「ああ、マナだけの食事などは飽き飽きした」

 モーセは、この民の不平不満に対して、説得するどころか、彼自身の重荷についての苦情を添えて、主なる神に申し上げてしまいます。大いなる主は、そのモーセに対して怒るわけでもなく、「あなたがたは、1か月もの間、食べ飽きて吐き気を催すほどの肉を与えられる」と言われました。モーセは霊的によほど疲れていたのか、主が全能であることを忘れて、「私たちは、徒歩の男だけでも60万人もいます(つまり、女と子どもをくわえるならば、200万人にも上る数だ、という意味)。そんな大勢の民がひと月もの間、食べ続けるだけの肉が、どうやって?」と答えてしまいました。ここに彼の不信の罪の1つが示されています。これに対して、主は静かに「主の手は短いのだろうか」と答えられました。

 「主の手は、短いのだろうか」
 私たちも、この御言葉を、真摯に受けとめる必要があります。私たちは、口では、「無限の主、永遠の主、万能の主」などと言います。言いますが、全能の主の御力を、勝手に制限をつけて考えていることが多いのではないでしょうか。それは、自分の経験や知識から、「ありえない、あるはずがない」と主なる神様についても無意識に限定的な評価をしてしまうからです。私たちが、主を造ったのでしょうか。そうではないとするなら、では、なぜ、神様の御力を限定してしまうのですか。
 「主の手は、短いのだろうか」
 この主の御言葉は、私たちの考え違いを、打ち砕いて余りあるものです。特に、試練のなかにあるとき、いかに祈っても、祈り続けても、何の暁光も見えないように思われることがあるでしょう。そのようなときにこそ、「主の手は、短いのだろうか」 この御言葉にすがって、主に対する信頼をいや増した祈りを深めてまいりましょう。


【信仰告白】

[2] 使徒信条