「契約の箱が出発するときには、モーセはこう言っていた。『主よ。立ち上がってください。あなたの敵は散らされ、あなたを憎む者は、御前から逃げ去りますように。』 またそれがとどまるときに、彼は言っていた。『主よ。お帰りください。イスラエルの幾千万の民のもとに。』」(10章35〜36節)
8章は、主として、レビ人の聖別と会見の天幕における奉仕についての規定が記されています。
9章は、第2年目の過越の祭りが祝われるべきことが記され、同時に周到にも、死体によって身を汚したり、旅路にあったりして、この過越に参加できなかった人に対する1か月後の過越の祭りの祝い方が述べられます。
10章は、シナイ山からカデシュに出発するイスラエルに、行進の隊列の組み方や、ラッパの吹き分け方が、指示されています。隊列の先頭には、ケハテ族のかつぐ契約の箱がありました。神の契約の箱が先頭をすすむ! まさにこの進軍が、神の戦いであることを誰の目にも明らかに示しているのです。
私たちの地上における信仰生活も、常に主の導きによって、主の戦いとして、繰り広げられるべきなのです。ともすれば、私たち自身による、私たちのための戦いが優先してしまうのではないでしょうか。そのようであってはならない、と御言葉は示しています。私たちが自身の思惑によって、慮りによって行動するときは、そのことから、多くの過ちや、的外れ的な事柄を引き起こしてしまいます。
常に主の御心をはかるために、祈ってから行動をおこしましょう。そうするときに、主は、必ず、昼は雲の柱、夜は火の柱となって、私たちに伴ってくださるのです。
契約の箱が出発するときに、モーセは「主よ、立ち上がってください」と祈りました。そして行軍がとまるときに「主よ、お帰りください。イスラエルの幾千万の民のもとに」と歌いました。
ここに、主とともにある信仰者の麗しく恵まれた生活をしのぶのです。いや、そうではなく、主がともにいてくださる信仰者の祈りを垣間見ることができるのです。主がともにいてくださる! 私たちが求めずとも、主の御目は、私たちの上に、常に暖かく注がれています。
「主よ、お帰りください。私たちのもとに」
今夜も、モーセの祈りを心のうちに篤く共感して、天の父の大いなる御恵みのうちに、夢路をたどりましょう。