「しかしケハテ族には何も与えなかった」(9節)
7章では、イスラエルの族長たちがささげた、ささげものについての記述が詳細に述べられております。特に12節から83節にかけて、12部族のささげものは、部族ごとに、全く同じ品目、同じ分量のものが繰り返し羅列されています。部族の名前と族長の名前が異なるだけ。多くの読者は、おそらく途中を読み飛ばしてしまうのではないでしょうか。しかし、聖書は、全編が神様の御言葉である、との理解にたつとき、冗長にみえる事柄の反復のなかに、神様のメッセージがなにか必ずあるはず、と考えて接していくことが、とても大切です。
9節に、「ケハテ族には何も与えなかった」とあります。祭司として働くレビ族のうち、ゲルション族には車2両と雄牛4頭が、メラリ族にはその倍の車4両と雄牛8頭が、天幕の奉仕に使うために族長たちからささげられたものから、分け与えられたのです。けれども、ケハテ族には、何も与えられなかった。では、ケハテ族は、運ぶべき物の分担はなかったのかというと、もちろんあったのです。彼らの任務は、契約の箱とその周辺の聖なる用具類を担当することでした(3章31節)。幕屋の幕、柱、板などは、ゲルション族とメラリ族の担当でした。同じように、運搬をする、という任務を担当しながら、ケハテ族には、載せて運ぶ車はなかったのです。
このことは、不公平な配分なのだと考えるべきではありません。なぜなら、運ばれるもののうち、ケハテ族が担当するものは、実に契約の箱であるからです。主なる神のご臨在の象徴である、契約の箱なのです。ゲルション族とメラリ族は、運ぶべき物が決められたとき、ケハテ族をうらやんだに相違ありません。あの契約の箱を担当したい! だが、契約の箱は、神聖でした。車などで運ぶべきものではありません。人の力で、人の体で運ぶべき物なのです。
信仰とは、主なる神と人との直接のかかわりのなかで、はぐくまれるべきものです。何か、簡便な方法で、楽をして、神様を知ることはできないのです。全力をつくして、神様に接していく、その結果、神様の御声を聞くことができるでしょう。あの人には、あんな賜物がある、この人には云々、などと思うことは不適切です。神様は、私たちに、私たち自身という、最上の賜物を用意していてくださったのですから。