安息の年(2〜7節)と、ヨベルの年(8〜55節)という、主の安息について語られます。
「休んでいいよ。ゆっくりしていなさい」と言われて嬉しくない人はいないでしょう。しかし、なぜ今日の箇所で、あえて「安息」について教えられているのでしょうか? 何がそんなに「休むこと」を難しくしているのでしょう?
20節の言葉が気になります。「もし、種を蒔かず、また収穫も集めないのなら、私たちは7年目に何を食べればよいのか」
私たちの現実は、休みたいけど休めない事情だらけです。生活がかかっています。家族を養わなくてはいけません。家のローンの返済もあります。子どもの教育や老後のためにも、働けるうちに働いておかなければなりません。お金が必要です。「神様は食べさせてくれない。自分で何とかして生きていかなくてはいけない!」と。
21〜22節「わたしは、6年目に、あなたがたのため、わたしの祝福を命じ、3年間のための収穫を生じさせる。あなたがたが8年目に種を蒔くときにも、古い収穫をなお食べていよう。9年目まで、その収穫があるまで、なお古いものを食べることができる」
新約の時代に生きる私たちに、この言葉をそのまま文字どおり当てはめることはしませんが、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6章33節)は、クリスチャンの大原則であり、イエス様からの信頼できる約束です。
神の前に静まり、神の恵みとみわざを覚えるときを特別に持つことは、神に造られた者としての務めであり、恵みです。それを邪魔する様々な出来事や事情に心奪われると、安息を持つことを難しくし、神に信頼することを妨げ、主からの約束を忘れさせます。だからこそ、私たちは、主の日を聖なる日として「わたしはあなたがたの神、主である」(55節)と言われる方のもとに立ち返り、礼拝をささげ、みことばからいのちの糧をいただく必要があるのです。
主の安息を守ることは、私たちの第一優先です。ヨベルの年が、神の民に、「主こそ真の支配者、主権者である」ことを、約束の地で具体的に教えたように、私たちも、真の支配者、主権者なるお方を覚えるため、安息を守りたいものです。