19章は、十戒を具体的に示した箇所として有名です。律法の要約と本質を実際問題において教えていると言えるでしょう。しかし、律法の要約とは言え、3節に父母を敬うことが出てくるのは、興味深いところです。そして、続けて安息日を守らなければならないとあって、神礼拝につながるというのはどういうことでしょうか。
エペソ書6章2節にも父母を敬うことが第一の戒めであると書かれていますが、イスラエルの社会では親を神の代理者と見ていたところがありました。ですから、父母を敬うことは、神への誠実さをあらわす具体的な方法でもあったのです。そして、このことは、即、安息日を守るという、より明確な神礼拝の重要性へとつながるのです。
また、ここで触れておきたいのは、「母と父とを」という言葉の並びについてです。おそらく、当時一般的に、母のほうが父よりも軽んじられる傾向にあったのでしょう。ですから、聖書は、わざわざ母を父よりも先に記し、そのどちらも大切であることを教えているのです。
そして、19章のなかで最も大切な箇所は、なんといっても18節でしょう。新約聖書にも「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という命令の大切さが記されているので、よくご存じの方も多いと思います。ユダヤ教のラビ(教師)たちも、この18節が律法の基本だと考える人が多いようです。
ラビたちの18節の理解として、「お前がしたように私もする」ことが復讐であり、「わたしはあなたのようにはしませんよ」というのが恨みであるというのがあります。このように考えると、聖書は、やりかえすことはもちろん、無関心を決め込むこともよくないと言っていることになります。そのようなことを越えて、積極的に、建設的に、肯定的に、関わることを求めているのです。それが、「愛」の実践と言うことになるのです。
この理解は、私たちに大きなチャレンジを与えるものです。人間関係の希薄さが言われる最近の傾向として、身の回りで起きる問題について、私たちは、見ないふり、臭いものには蓋の態度を決め込むことが多くなっているように思います。そうではなくて、聖書は、「愛」の実践として、もっとキリスト者が社会に対して積極的に関わることを求めているのではないでしょうか。
それは、決して大きなことをしなさいということではありません。今日も、私たちのできる「愛」の実践とは何かを、考えてゆきたいと思います。