第7金曜 レビ記16章〜18章



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 16章では、「アザゼル」のやぎが出てきます。「アザゼル」というのが、人格的な存在を指すのか、場所を指すのかは、明確ではありません。しかし、意味としては、ヘブル語の「除去する」を意味する「アザール」の強意で、「まったき除去」または「罪のまったき赦し」ととることができるように思われます。ただし、ユダヤ教では、やぎのように毛深い悪霊と考えられているようです。そして、「アザゼルのためのやぎ」の儀式は、民の罪を背負って地の果てに追放され、民の罪を遠くに運び去って、悪霊のかしらのもとへと返すという意味があるようです。
 どちらにしても、21・22節の様子は、民の罪を背負わせるという点においては、私たち人間の罪を背負われたイエス様の十字架を想起させるものです。また、人里離れた所へ追放されるやぎの姿は、十字架の死によって、一度は父なる神との交わりからも引き離されたイエス様の死の苦しみをも思い起こさせます。私たちは、そのイエス様の十字架の死によって、罪赦され、永遠のいのちを与えられるに至ったということを、本当に感謝すべきではないでしょうか。

 17章には、16章の儀式を前提とした神と民との関係を、日常生活のなかでどのように展開させるのかについて記されています。そして、この17章以降26章までを「聖潔法典」と言うこともあります。
 17章で目を引くのは、10節以降の「血の取り扱い」だと思います。ある人たちは、このところを捉えて、輸血拒否をし、社会問題化したこともありました。確かに、輸血の問題は臓器移植などと絡めて考えると、とても複雑な問題であり、一言で答えが出るものではないのかもしれません。しかし、ここで聖書の意図するのは、家畜の屠殺や血の扱いについて、異教的偶像礼拝的な要素を排除することにあります。当時は、血を飲んだり食べたりする異教の習慣があったのです。また、イスラエルのいけにえの儀式においても、人間の命を贖う手段として、血が用いられていました。そういう意味で、血の取り扱いについて、特別に取り上げられているのです。

 18章では、結婚生活、性生活の指針が与えられます。特に、2〜5節および30節から分かるように、カナン人や先祖たちの習慣にならってはいけない、ということが強調されます。
 これは、今の時代においても、よくよく注意しなければいけません。私たちの価値観や行動の基準は、はたして神様の基準に沿ったものとなっているでしょうか。「今までがそうだったから」「先輩たちがやっていたから」と言って、何も考えずに行動してはいないでしょうか。より、神様の基準に近づけるように、お互い励まし合いながら、信仰者としての生活を送ってまいりましょう。


【信仰告白】

[2] 使徒信条