13章には、「ツァラアト」という皮膚病の取り扱いについて記されています。この「ツァラアト」という言葉は、以前は「らい病」と訳されていました。しかし、最近は、社会的な要請や研究の成果によって、「らい病」という訳語は適切ではないということが認められるようになってきています。そのため、「重い皮膚病」と訳したり、「ツァラアト」とヘブル語の音のまま載せるようになりました。
どちらにしても、この「ツァラアト」という病気は、感染力が強いとされ、その病気が認められる人は、衣服を裂き、自分で「汚れている、汚れている」と叫び、人々がその人に触れないようにしなければなりませんでした。もちろん、住む場所も変えなければならず、ひとりで住むことを余儀なくされました。ある資料によれば、「ツァラアト」にかかっている人は、死人と同じようにみなされたということです。ですから、彼らは結婚生活も禁じられたようです。
イスラエルの人々にとって、生きる世界は、イスラエルの社会がすべてでした。イスラエル社会との交わりが絶たれることは、救いからもれることを意味していました。ですから、この病気は、イスラエルにおいては、罪の罰として神から与えられるものと考えられ、社会的にも、宗教的にも忌み嫌われる病気だったのです。
しかし、興味深いのは12・13節です。ツァラアトが体の全部を被うと、「きよい」とされるのです。隠すことができないほどに、全身にツァラアトの症状が出ると、祭司は「きよい」と宣言するのです。
私たちの罪の性質を彷彿とさせます。私たちの罪は、神の前に隠し続けるなら、それは罪のままです。しかし、その罪を神の前に告白し、言い表すなら、その罪もすでにイエス様の十字架で赦されているということを確認することができます。「きよい」と宣言されるのです。
罪を認め、告白することは簡単なことではありません。しかし、主の前に自らの罪を表し、「きよい」とされるなら、素直に主の前に自らの罪、弱さをさらけ出したいものです。