11章には、「食べてもよいもの」と「食べてはならない、汚れたもの」について、具体的に述べられています。イスラエルの民は、出エジプトのあと、このような命令を神様からありがたくも頂戴したわけです。しかし、このような規定は、読んでいると、げんなりしてきます。
最近は、ダイエットブームもあって、多くの人たちがカロリー計算をしながら食事をしているのかもしれません。しかし、私は、根っからのずぼらな性格ですから、カロリー計算をしながら食事をするというのができません。また、したくもありません、というのが正直なところでしょうか。「そんなにして食事をして、何が楽しいの?」と考えてしまいます。ですから、このレビ記の規定についても「これはたいへんだ〜」と考えてしまうのです。
しかし、この規定は、決して、イスラエルの民をしばりつけるためのものではありませんでした。この規定の意味は、イスラエルの民が、その他の民とは違う特別な存在であることの証であったのです。しかも、その証は、「世から分離される」ということに強調点があるのではなく、むしろ「神へ分離される」という意味合いが強いのです。つまり、イスラエルの民が「今や聖なる方のものとなった」という意味を表すものであったのです。ですから、イスラエルの民としては、選ばれた民としての自覚を得るものであったと言えるのです。
「クリスチャンは窮屈そうだ」と言われることがあります。確かに、日曜日の礼拝への出席にはじまり、クリスチャンには、ほかの人たちに比べると禁止事項も多いように思います。しかし、それも、決して私たちを縛りつけるためのものではなく、また、「世の人々と付き合うのはよしなさい」というものでもないのです。私たちが救われ、「今や聖なるお方のものとなった」証として、受け入れるべきものなのです。
12章には、産婦のきよめについて記されています。
この戒めは結果的に、産婦に対するいたわりと健康の回復を助けることにつながったと言われています。このような箇所を読むときに、決して、聖書が男尊女卑を謳ったものではないというのが、よくわかるのではないでしょうか。しかも、産後の全焼のいけにえについても、8節には貧しい人たちへの配慮が記されているのです。
律法と聞くと、私たちはどこか堅苦しさを感じてしまいます。しかし、これらの聖書の配慮を見ると、やはり律法は私たちを守るための、神様の愛のあらわれであることがわかるのです。