8章には、アロンとその子たちに対しての祭司職への任職の儀式について記されています。
「聖別」という言葉が目立つことからも分かるように、「聖さ」が強調されています。そして33節を読むと、これらの行為を7日間毎日しなければいけないことがわかります。出エジプト記にも同じことが記されており、そこには、はっきりと7日間毎日、いけにえがささげられなければならないことが記されています。
それを考えると、「聖別」されるということがどれほど大変なことなのか、想像に難くないでしょう。多くの動物たちの血が流される現場は、神殿や祭壇の静かでおごそかなイメージからは遠くかけ離れ、凄惨な状況であるように思われます。しかし、それこそが、「聖別」されるということの意味を物語っているのです。
これと同じことを今の時代に行なおうと考えるなら、一体、だれが自らの罪を贖うことができるでしょうか。しかし、感謝なことに、そのようなことはしなくてもいいのです。御子イエス様が、私たちの罪の贖いのいけにえとなってくださったのです。今や、私たちは、御子の十字架を信じるだけでよいのです。なんと素晴らしい恵みでしょうか。その恵みに感謝し、その恵みを握りしめて、歩みたいと思わされます。
9章には、イスラエルの民のためのいけにえがささげられた様子、そして、主の栄光が現れたこと(主の臨在)について記されています。
私たちもまた、自らの罪を認め、その罪を主の前に悔い改めたとき、主の臨在に触れることができると言えます。特に、罪のためのいけにえとして全焼のいけにえをささげる、ということは、主の前に自らをささげることを表していると言えるでしょう。私たちも、自らを主にささげるそのとき、主の臨在が満ちあふれることを体験するのです。
10章冒頭には、衝撃的な出来事が記されています。アロンの息子の2人、ナダブとアビフが、聖められていない火皿に神の命令とは異なる火を入れたために命を絶たれたという事件です。この出来事を前にアロンはただ黙るしかなかった、というのが事の重大さを表わしています。確かに、そこには息子を失った悲しみとその罪の大きさゆえの恐れとがありました。しかし、この出来事をとおしてあらわされた神の栄光と臨在もあったのです。
神の御業のあらわれを経験するとき、もしかすると、私たちも、さまざまな想いがわきあがり、何と答えたら良いのか分からないということもあります。しかし、それにもかかわらず、すぐに答えを求めてしまう傾向が、私たちにはあるように思います。しかも厄介なことに、私たちは、信仰者としての言動を求めてしまうのです。
確かに、予期せぬ出来事が起きたときでも、神様への感謝を表すことができるなら、それはすばらしいことかもしれません。しかし、アロンの残りの子、エルアザルとイタマルは、この出来事のゆえに、ショックを受け、食べなければいけない物を食べることができなかったのです。その行為は、ある意味で、神の命令に背くことでした。
では、それに対するモーセの反応は、神様の反応は、どうだったのでしょうか。彼らの言い分を聞くなり、「わかった」と彼らの思いを受け止めてくださったのです。これが私たちの神様です。確かに、エルアザルとイタマルの態度は、祭司にはあるまじき態度だったかもしれません。しかし、神様は、私たち人間の側の理由にも耳を傾けてくださるお方なのです。だからこそ、私たちはこの神様を信頼し、この神様に従っていくことができる、のです。