24章では、これまでに語られた民に対する主の戒め(契約)の批准の様子が記されます。神の要求と約束が民の前で告げられると、民は声を一つにして「主の仰せられたことは、みな行います」(24章3節)と答えました。
神と民との契約が批准され、効力を持つためには、さらになすべきことがありました。それは祭壇で主にいけにえをささげ、いけにえの血の半分を祭壇に、残りの半分を民に注ぎかけることでした(「注ぐ」という言葉は「振りまく」という意味の言葉で、新共同訳の「振りかける」という訳のほうが、より原意に近いと言えます)。
モーセは、そのいけにえの血を「主があなたがたと結ばれる契約の血である」(24章8節)と言いました。いけにえの血が注ぎかけられることによって、神が自分たちと契約を結ばれたことを意味しているのです。
これは、新約聖書でイエスの言葉として出てきます。最後の晩餐と呼ばれる席上で、ぶどう酒の杯を取ったイエスは、「これはわたしの契約の血です」(マタイ26章28節ほか)と言われました。十字架上で流されるイエスの血が、私たち人間の罪を贖い、永遠のいのちを与える「契約の血」なのです。
ですからそれにあずかること、また聖餐式でぶどう酒にあずかることは、大変重要な意味を持っているのです。クリスチャンの方で聖餐式にあずかるとき、このような意識をもって、自覚的にあずかっているか、確認が必要です。
そして、主の仰せに従って再び山に登ったモーセは、幕屋の建設を命じられます。幕屋については25章から31章にかけて記されています。幕屋とは神が住まわれる場所、神が民と会われる場所です。25章では幕屋建設のために必要な材料をささげることが語られていますが、このとき「すべて、心から進んでささげる」ことが重要です。「進んで」を口語訳では「喜んで」と訳しているように、主へのささげものは強制されてするものではなく、自ら進んで、心から喜んでささげられなければなりません。強制されてささげられたもので建てられる幕屋を、主は喜ばれません。
また、神の幕屋はすべて主が示すとおりに作らなければなりません。各々が作りたいように自分勝手に作るのではなく、主がそこに住んでくださるのに相応しく造らねばならず、それは主が示されるとおりにする以外に方法はありません。
神の幕屋は教会であり、教会はキリストのからだです。私たちはキリストのからだの各器官として、心から喜んでささげているでしょうか。また主がその御言葉をとおして語られているとおりに、忠実に従って教会を建てあげているでしょうか。今一度、問い直しましょう。