第5火曜 出エジプト記19章〜20章



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 主は、モーセをとおしてイスラエルの民に仰せられました。彼らは主の救いの御業を「見た」(19章4節)と。民に対する神のあふれるばかりの恵みを、彼らは確かにその目で「見た」のです。神の恵みを注がれた民は、いかに歩むべきでしょうか。それは、主の御声に聞き従い、主との契約を守ることです。このことは単に、神が恵みをくださったのだから、その言うことを聞かなければならない、ということではありません。主はいつでも、恵みを注いだ私たちが、その恵みに対して「応答」することを求め、願っておられるのです。

 神の恵みを十分に受けて、主の御声に聞き従う道が、キリスト者の歩みです。主は絶えず御言葉をもって民に語りかけ、主の御心に従って歩むようにと導いてくださっているのです。しかも、この歩みは、私たちが主の「宝となる」(19章5節)ためであるというのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43章4節)と言われたように、主は私たちを大切な存在として整え、導き、主のものとするために、私たちを導かれるのです。そうであるなら、私たちは喜んで主にすべてを委ね、その御声に聞き従っていくべきではないでしょうか。

 主に従っていくための具体的な教えが、20章で語られている「十戒」と呼ばれる教えです。十戒において大切なことは、序文と呼ばれる2節にあります。教えを与えられる神は、民をエジプトから救い出し、解放してくださったお方です。また主なる神は「わたし」として民の前に自らを現し、イスラエルの一人一人を「あなた」と呼んで、神との親しい関係へと招き入れてくださったお方です。私たちが耳を傾けるべきお方は、抽象的な存在の「神」ではなく、出エジプトという歴史において具体的な行為をもってイスラエルを救い出してくださったお方です。
 そしてこの方を、「私の神」と呼ぶことができるのは、大きな恵み、幸いなのです。

 この主の恵みに答えるために、主は十戒をお与えになりました。十戒は救いのための条件ではなく、救われた者がその恵みに応えて、相応しく、主とともに歩んでいくための教えです。十戒をとおして語られる主の御声は、私たちを罪と向き合わせ、信仰の恵みにとどまらせ、そして、救いの恵みに対して感謝と喜びをもって神に従っていく道筋を示すものなのです。
 十戒は私たちを神の国というすばらしいゴールへと導いていく人生の道しるべであり、そこでは目的・目標を見失い、人生の意義を疑うような歩みはありません。主とともに、栄光のゴールを目指して旅を続けていくために与えられたものなのです。


【信仰告白】

[2] 使徒信条